ガールズ&パンツァーの戦車リアル性能と運用事績、2023最新情報ー楯無高校

テケ

性能情報

全長3.70 m
全幅1.90 m
全高1.79 m
重量自重4.25 t、全備重量4.75 t(砲搭載型)
速度42 km/h[1]
行動距離200 km
主砲機関銃搭載型:九七式車載重機関銃×1(銃弾2,800発)

砲搭載型:九四式三十七粍戦車砲または
九八式三十七粍戦車砲×1(砲弾102発)
装甲8~12 mm
エンジン池貝製作所 空冷直列4気筒ディーゼル
65 hp/2,300 rpm、排気量6,232cc
乗員2 名

運用事績

本車は主に師団捜索連隊に配備された。これは騎兵連隊を改編し編成された機動偵察部隊であり、本格的な戦闘を想定していないため、軽装甲、2人乗りの本車でも活躍できた。それ以外にも、戦車連隊など多くの部隊で連絡用などとして使用され、また海軍陸戦隊にも供与されている。1939年(昭和14年)のノモンハン事件では、戦車第3連隊に配備された本車が初陣を経験している。

太平洋戦争緒戦において、南方作戦各戦線で本車が活躍した。以下では、代表的な戦闘を紹介する。

開戦の12月8日に、マレー作戦のため海上侵攻した第5師団は、いち早く上陸した捜索第5連隊主力(3個中隊からなり、うち1個中隊が九七式軽装甲車8両装備。残りは自動貨車自転車装備)を、師団の先鋒としてタイ=マレー間国境線の偵察に向かわせた。捜索連隊は偵察の結果、防御が薄いのを見て取り、そのまま迅速に国境を突破した。この成功を受け、捜索連隊の指揮下に戦車第1連隊第3中隊九七式中戦車(チハ車)10両、九五式軽戦車2両装備)などを加え、連隊長佐伯静雄中佐を長とする特別挺進隊を編成し、イギリス軍の一大防御陣地「ジットラ・ライン」の突破に当たらせた。11日夜に戦車を先頭に夜襲を敢行、激しい反撃を受けるも翌日夜明けまでに陣地の一角を占領した。さらに突入隊支援のため装甲車8両から九七式車載重機関銃を下ろして歩兵化し、臨時機関銃中隊を編成、その掩護の下で攻撃を継続したところ、同日夕方イギリス軍は陣地から撤退した。佐伯挺進隊は隊員581人中200名近い大損害を出したが、「3ヶ月はもつ」といわれた強固な陣地をわずか1日で突破したのである。

フィリピン攻略のため12月24日にラモン湾に上陸した捜索第16連隊(装甲車10両)は、上陸に難航する師団主力部隊に先立ち、アチモナン=ルセナ間の道路を挺進し橋に仕掛けられた爆薬を除去した。途中で自動貨車を伴ったアメリカ極東陸軍部隊と遭遇したが、尖兵部隊の加入でこれを撃退できた。さらに進むうち、別のアメリカ軍部隊と交戦し、先頭を進んでいた第3中隊長菊間中尉が狙撃されて戦死した。損害を出しながらも、連隊はその後もタヤバス山系まで前進し、同連隊の活躍により、軍主力の進出は容易になった。

初期の侵攻作戦では軍主力に先立つ戦闘で活躍した本車だが、所詮は豆戦車であり限界があった。戦況の悪化と共に侵攻作戦が行われることも少なくなり、島嶼の防御戦が中心となると、真価である機動力の発揮ができなくなった捜索連隊自体も次々と縮小されていった。しかし、その後も本車は各地で貴重な機甲戦力として防衛戦に参加した。

戦後、国内に残った車両は大部分が解体されたが、一部は武装を撤去した後、ドーザーキットを装着しブルドーザー(更生戦車)として戦後復興に活躍した。また中国大陸に残された車両は1945~49年にかけての国共内戦において両勢力で使用された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/九七式軽装甲車

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