チャーフィー
性能情報
全長 | 5.56m |
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車体長 | 5.03m |
全幅 | 3m |
全高 | 2.77m |
重量 | 18.4t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 約56km/h(整地) 約40km/h(不整地) |
行動距離 | 161km |
主砲 | 40口径75mm戦車砲M6×1(48発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(440発) 7.62mm機関銃M1919×2(3,750発) |
装甲 | 砲塔防盾38mm後面25.4mm上面13mm車体前面・側面前部25.4mm側面後部・後面19mm上面13mm底面10-13mm |
エンジン | Cadillac Series 44T24 4ストロークV型8気筒水冷ガソリン×2基 110+110hp(220hp/164kW) |
乗員 | 5名(砲塔:3名) |
運用事績
本車は1944年末よりヨーロッパに送られ、最初に部隊配備された20輌が「バルジの戦い」で初陣を飾った。機甲師団戦車大隊と機械化騎兵偵察大隊の軽戦車中隊に配備され、ドイツ軍のIV号戦車を撃破している。以降、配備された車輌の少数が実戦を経験し、1945年3月初め頃には、ドイツ国内のドマゲン近郊で、第4機甲偵察大隊F中隊のM24が、榴弾の爆発の衝撃での車内の即用弾薬を誘爆させる手段で、ティーガー戦車2輌を撃破したことが記録されている。
しかし、それまでのずんぐりしたアメリカ戦車と異なり、敵のパンター戦車のようなスマートな形状ゆえ味方から誤射されることもあり、「パンサー・パプス」(仔豹)などとも呼ばれた。イギリス軍へも289輌が供与されたが、実戦投入前に終戦を迎えた。またレンドリースの参考用としてソ連軍にも2輌が送られ、全体的に高い評価を得たものの、既に軽戦車というジャンルそのものが装甲も火力も力不足であるとして、それ以上の供与が求められることは無かった。製造されたM24のうち、1946年から1950年にかけて1600輌ほどが、オーバーホールと近代化改修を受けている。
第二次世界大戦後もアメリカ陸軍は主力軽戦車としてM24軽戦車を使用していたが、朝鮮戦争においてT-34-85を相手に苦戦を強いられ、第二次大戦後に開発が始まった戦後型軽戦車のM41軽戦車にその座を譲ることになる。また、フランス軍に供与された車輌は分解されてベトナムに空輸され、ディエンビエンフーの戦いでベトミンと戦った。その後、南ベトナム軍もフランス(撤退時に残されたうちの残存車輌で43輌ほど)やアメリカ(追加供与で32輌)から得た本車を装備して、北ベトナム軍や南ベトナム解放民族戦線と戦ったが、1965年から供与の始まったM41と交代して、空港や施設の防衛任務に回されていった。
前述の国以外にも、M24軽戦車はイタリア(50輌)、イラク(78輌)、イラン(180輌)、ウルグアイ(17輌)、エチオピア(34輌)、オーストリア(54輌)、オランダ(50輌)、カンボジア(36輌)、ギリシャ(170輌)、サウジアラビア(52輌)、スペイン(180輌)、タイ(20輌)、台湾(292輌)、トルコ(114輌)、ノルウェー(72輌)、パキスタン(282輌)、ベルギー(130輌)、ポルトガル(16輌)、ラオス(4輌)といった西側諸国他に供与され、1970年代から1980年代まで使用され続けた。
中華民国国軍(台湾軍)の車両は金門島及び馬祖島で2000年頃まで現役装備としてトーチカに収容されて配備されていた(現在は引き揚げられて博物館に展示されている)。
日本におけるM24
日本には警察予備隊の創設とともに重装備の一つとして本車の供与が決定され[1]、1952年3月から8月にかけて最初の引渡しが行われ、最終的な供与数は238輌だった。ただし、同年10月の保安隊発足に伴い、実質的な訓練と部隊編成は保安隊発足以後に行われることとなった。
導入当初は憲法九条との兼ね合いから「戦車」ではなく「特車」と呼ばれた[1]。
最初の40輌は相馬原で編成された特別教育隊と普通科連隊第14中隊に少数ずつ分散装備された。後に各師団戦車大隊向けに375輌が供与され、同じく供与されていたM4A3E8と共に、初期の陸上自衛隊の機甲兵力を担った。小柄な車体からM4に比べて日本人の体格に合い、操縦性、踏破性などテケ車に近いと高く評価された。
大型のM4が在北海道部隊などに優先配備されたのと異なり、小型軽量の本車は全国の部隊に広く配備され、創設間もない陸上自衛隊の代表的な「戦車」(装備当時の呼称は「特車」)となった。1961年からはM41軽戦車及び61式戦車の導入が進められて本車との装備更新が進められ、1974年には最後の車両が退役している。
退役した車両は順次返還が行われたが、少数が現在も日本国内に残存しており、富士駐屯地を始めとして陸上自衛隊駐屯地の展示品として保存されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/M24軽戦車
パーシング
性能情報
全長 | 8.65m |
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車体長 | 6.33m |
全幅 | 3.51m |
全高 | 2.78m |
重量 | 41.9t |
懸架方式 | トーションバー方式 アリソン 900F2“トルクマティック”オートマチックトランスミッション(前進3段/後進1段)後輪駆動式 |
速度 | 40km/h |
行動距離 | 161km |
主砲 | 50口径90mm砲M3×1(70発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(550発) 7.62mm機関銃M1919×2(5,000発) |
装甲 | 砲塔防盾114.3mm前面101.6mm側面76.2mm後面76.2mm上面25.4mm車体前面上部101.6mm前面下部76.2mm側面76.2-50.8mm上面22mm後面上部50.8mm後面下部19mm |
エンジン | フォードGAF6002B 4ストロークV型8気筒液冷ガソリン 500hp/2,600rpm |
乗員 | 5名 |
運用事績
実戦では1945年2月にエルスドルフ近郊で、ティーガーの攻撃により1輌が被弾損傷し死傷者が出たものの、後に修理されて復帰。二日後にティーガーと2輌のIV号戦車を撃破した。この後、レマゲン鉄橋では歩兵支援を行なっている。3月6日にはケルン近郊でナースホルン自走砲の砲撃により車体前面下部を射貫された1輌が撃破(乗員は脱出)され、これは大戦中に全損となった唯一のT26E3であった。さらにこの後、偶然遭遇したパンターやティーガーI、IV号戦車を撃破したのみで終戦を迎えることとなり、実戦に参加できたのは最初の20輌に留まった。
スーパーパーシングは試作車1輌が実戦配備され、現地改造によりボイラー用鋼板と遺棄されたパンターの装甲から切り出した増加装甲で強化されて実戦に投入されている。この車両は4月に一発で敵重戦車(形式不明)1輌を撃破している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/M26パーシング
センチュリオン
性能情報
全長 | 9.83m |
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車体長 | 7.55m |
全幅 | 3.39m |
全高 | 3.01m |
重量 | 52t |
懸架方式 | ホルストマン方式 |
速度 | 34 km/h |
行動距離 | 450km |
主砲 | Mk.1-258.3口径17ポンド砲(70発)Mk.3-866.7口径20ポンド砲(65発)Mk.9-51口径L7 105mm砲(64発) |
副武装 | Mk.1-47.92mm ベサ機関銃(3,600発)Mk.5-7.62mm M1919重機関銃(4,200発) |
装甲 | 砲塔前面:152mm側面:89mm後面:89mm上面:25mm車体前面:76mm (Mk.5/1以降、+50.8mm)側面前部:51mm側面後部上:36mm側面後部下:20mm車体上面:25mm底面:17mm装甲スカート:5mm |
エンジン | ロールス・ロイス ミーティア・ガソリンエンジン 650HP |
乗員 | 4名 |
運用事績
インドは、印パ戦争でセンチュリオンを投入し、パキスタン軍のM47およびM48パットンと交戦し、待ち伏せ攻撃により圧勝した。
また、オーストラリアはベトナム戦争の派遣軍に参加する際にセンチュリオン Mk5/1を投入したが、戦車戦は発生しなかった。同軍の車輌は夜襲に備え砲塔前面に大型のサーチライトを装備し、また、工具箱や砲塔後部のバケット、車体前面に付けた予備転輪などをスペースドアーマー代わりにすることで、RPGの攻撃にもよく耐えたという。
また、南アフリカもナミビア経由でのアンゴラへの侵攻(South African Border War)にセンチュリオンを投入し、アンゴラ軍のT-54/55やT-62と交戦している。
同国では人種別隔離政策(アパルトヘイト)を行っていたため、先進国から禁輸措置が行われ、最新兵器が輸入できない状態であった。1976年よりセンチュリオンの近代化改良型の開発計画が始まり、同年、最初の試作車が完成し、翌年1977年には2両目の試作車が完成、1978年に3両目の試作車が完成し、最終段階でオリファント Mk.1戦車として南アフリカ陸軍の制式装備として採用された。1985年からアンゴラでの戦闘に改良改造型のオリファント Mk 1Aが投入された。1991年以降に開発されたオリファント Mk 1Bに旧型車が順次改造されており、これにより南アフリカ陸軍の主力戦車のスペックを飛躍的に向上させた。
2023年現在もなお、同国内で現役として稼働中である[2]。
オリファント戦車がこうした多期に渡る大掛かりな改修・改造を成しえたのは、ベースとなったセンチュリオン戦車が元々頑丈な設計で車体規模にも余裕があったためである。
詳細は「オリファント (戦車)」を参照
イスラエルでの活躍
センチュリオンは、朝鮮戦争での活躍から世界各国で主力戦車として導入されたが、中でもイスラエルに導入されたセンチュリオンは改良を加えられ、幾度かの戦役に参加し活躍した。
イスラエルは、イギリスとチーフテン改良型の共同開発の契約を結び[注 2]、その契約の一部として同国で余剰化していたセンチュリオン Mk.3を導入、その後もイギリスやオランダの車両更新に伴う余剰センチュリオンを大量に購入した。
期待を受けイスラエルに導入されたセンチュリオンではあったが、元来ヨーロッパでの運用を前提として設計されていたために熱波と細かな砂塵にさらされる中東で各種のトラブルが頻発し、当初の搭乗員の評価は散々なものであった。しかし、その後の主砲やエンジン、トランスミッションなどの換装により第三次中東戦争(六日間戦争)や第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でアメリカ製のM48パットン/M60パットン(マガフ)と共にアラブ連合側のソ連製T-55やT-62と激戦を繰り広げ、特にシリア機甲部隊と激突した涙の谷の戦闘では、戦場が破壊された戦車の墓場となった。また第四次中東戦争でアラブ側が運用したソ連製対戦車ミサイルによりM48/M60が多大な損害を被ったのに対し、センチュリオンは堅牢な車体構造に加えて砲塔周囲の工具箱やサイドスカートが空間装甲として機能した事で比較的損害が抑えられている。
その後、主力戦車の座はメルカバに譲ったものの、対戦車ミサイル対策としてリアクティブアーマーを装着してレバノン内戦などにも投入された。現在は戦車としては退役したものの、その地雷などへの対抗性を買われて、ナグマショットやプーマなどの装甲兵員輸送車や歩兵戦闘車、戦闘工兵車に改造され使用されている。
センチュリオンの改良により得られたノウハウはメルカバの開発に大いに生かされており[注 3]、特に旧式ではあるが交換が簡単で車内容積を広くできるホルストマン・サスペンションなど、走行装置の構成はセンチュリオンに酷似している。
詳細は「ショット (戦車)」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/センチュリオン_(戦車)
T28
性能情報
全長 | 11.1 m |
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車体長 | 6.33 m |
全幅 | 4.39 m |
全高 | 2.84 m |
重量 | 86.2 t |
懸架方式 | 二重装軌式 |
速度 | 19.3 km/h[1] |
行動距離 | 160 km |
主砲 | T5E1 105mm砲 (62発) |
副武装 | ブローニングM2重機関銃 (660発) |
装甲 | 300mm |
エンジン | フォードGAF V型8気筒液冷ガソリンエンジン 500hp(372 kW)[2] |
乗員 | 3名または4名[2][1] |
2輌を生産 |
運用事績
T28はマウスのような[3]ドイツ軍重戦車への対抗として設計され[1]、また重防御されたドイツ軍のジークフリート線に対する攻撃をも企図して準備されていた[4]。
1944年3月に「T28」の呼称が与えられた本車は、ヨーロッパ戦線における最後のひと押しのために開発されたものだった。しかし設計案がまとまった頃にはドイツが降伏、更に太平洋戦争終結により、当初の計画では試作型5輌と25輌の量産型が製造されるはずであったが[4]、試作型2輌に減らされた。[2]。
T28は砲塔を装備せず、主兵装を収めるケースメート方式の戦闘室を構築しておりそれは自走砲そのものであった。そこで本車は1945年2月7日にT95戦車駆逐車へ改称された。しかし1946年6月、この車輛は再びT28へと改称された[4]。この経緯には本車の性格に関する議論があったが、本車の実質は戦車ではなく戦車駆逐車、より正確に言うならばドイツ軍における駆逐戦車(Jagdpanzer)の様式に沿う重戦車駆逐車であり、ドイツ軍重戦車と戦うことを意図していた[1]。
製造された2輛は1947年までアバディーン性能試験場およびフォート・ノックスの施設で審査を受けた。1947年、T28のうち1輌がユマ試験場において試験走行中にエンジン火災を起こし、重大な損傷を受けて廃棄された。もう1輌のT28は解体された後にスクラップとして売られることが報告された。T28が配備されることは全くなかった。なぜならT28の開発と審査は、砲塔装備の重戦車設計であるT29重戦車とT30重戦車に追い越されたからである[4]。T29は本車と同口径の砲を装備し、T30はより大口径の砲とさらに強力なエンジンを搭載して開発されていた。このため、T28の開発計画は1947年10月に中止された[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T28重戦車
カール自走臼砲
性能情報
種類 | 自走臼砲 |
---|---|
原開発国 | ナチス・ドイツ |
運用史 | |
配備期間 | 1941年~1945年 |
配備先 | ナチス・ドイツ |
関連戦争・紛争 | 第二次世界大戦 |
開発史 | |
開発者 | ラインメタル |
製造業者 | ラインメタル |
製造期間 | 1940年~1942年 |
製造数 | 7 |
派生型 | Karl-Gerät 041 |
諸元 | |
重量 | 124t |
全長 | 11.15m |
全幅 | 3.16m |
全高 | 4.38m |
要員数 | 21名 (指揮官,射手x18名,運転手,副運転手) |
砲弾 | 薬莢使用分離装薬式 |
口径 | 60cm |
銃砲身 | 8.45口径 |
砲尾 | 水平鎖線式 右側開き方式 |
反動 | 油気圧式緩衝装置 |
仰角 | 0°から最大70° |
旋回角 | 左右4° |
発射速度 | 1 発/10分 |
初速 | 220 m/秒(重ベトン弾) |
有効射程 | 4,320m |
装甲 | 10 mm(非装甲処理鋼板) |
主兵装 | Gerät 040 |
エンジン | ダイムラー・ベンツ MB503A V型12気筒液冷ガソリンエンジン(580 馬力) ダイムラー・ベンツ MB507C V型12気筒液冷ディーゼルエンジン(590 馬力) |
懸架・駆動 | トーションバー式 アルデルト 5段階(前進4速/後進1速)機械式変速機 フォイト 4段階(前進3速/後進1速)油圧式変速機 |
行動距離 | 42km (ガソリンエンジン) 60km (ディーゼルエンジン) |
速度 | 6 km/h (3.72 mph) to 10 km/h (6.2 mph) |
運用事績
本車は“自走”臼砲の名の通り、ダイムラー・ベンツ製MB 503 A 液冷12気筒ガソリンエンジン(580馬力)または同じくダイムラー・ベンツ製のMB 507 C 液冷12気筒ディーゼルエンジン(590馬力)を動力として、5段変速機械式、または4段変速油圧式の変速機を介して124トンの巨体ながら自力で走行することができた。
しかし、長距離の自走は現実的には不可能であった。エンジンではわずか時速10キロメートルしか出せない上、大量の燃料を消費したからである。操縦席は砲尾側、機関室区画の左側にあり、本車にとっての「前進方向」は砲尾側となる。操縦席は露天式で、後述の鉄道による輸送時など、使用しない場合には取り外し式の蓋でふさがれていた。サスペンションは可変式で、陣地に到着し射撃位置につくと、射撃時の反動を緩和するために車台が接地するよう車高を下げることができた。砲架の前方にある区画(本車の進行方向からは「後部」となる)の内部にはサスペンションの操作装置があり、操縦助手が操作した。操作室の天面には1基のハッチがあり、このハッチから内部に入ることができる。砲身方向に進行する(本車の操縦機構からは「後進」状態となる)際は、操縦席からは巨大な砲と砲架があるために後方、特に後方右側方向の視界がほとんど取れないため、操縦助手が進行方向の視界を補佐した。
基本的に本車の自走能力は照準する際に砲身が左右に4度ずつしか旋回できないのを補う事に使われ、長距離を移動する場合には鉄道を利用した。このとき用いられたのは5軸ボギー台車を使った特殊な大物車で、車台全体を固定台座を持つ二本の巨大な回転式アームで吊るして輸送した。目的地に到着すると車体は台座から外され、射撃する場所まで自走した。本車は100トンを超える車重がありながら、通常の地質ならば問題なく走行できた一方で、柔らかい土の上での旋回は絶対に避けなければならなかった。また、陣地転換の際に迅速に移動できるよう、また射撃精度を確保するために射撃陣地は正確な水平に整地されている必要があり、本車が走行する道路は溝や軟弱な部分を埋め固める必要があるなど、運用上の制約が多かった。
巨大な60cm/54cm砲は最大70度の仰角を取ることができたが、直接照準による水平射撃を行うことは想定されておらず、実際の射撃は仰角55度以上で行われた。弾薬の装填は俯仰角0度の状態でしか行えないため、射撃する際には1発射撃する毎に砲を水平状態にする必要があり、射撃毎に再照準する必要があった。このため、初弾以降は次発を発射するためには約10分を必要とした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/カール自走臼砲