ガールズ&パンツァーの戦車リアル性能と運用事績、2023最新情報ー知波単学園

チハ(旧砲塔)

性能情報

全長甲型 5.75 m
乙型 5.70 m
全幅2.18 m
全高2.56 m
重量甲型 自重11.9 t 全備12.7 t
乙型 自重12.2 t 全備13.0 t[1]
(計画時 11t以内[2]
懸架方式リーフ式サスペンション
速度最大25 km/h 巡航20 km/h(整地
8 km/h 〜 12 km/h(不整地
行動距離甲型 約140 km
乙型 約170 km
主砲九〇式五糎七戦車砲×1
(100発)
副武装九一式車載軽機関銃×2
(2,745発)
装甲最大17 mm
エンジン甲型 東京瓦斯電気工業ダ式一〇〇馬力発動機
水冷直列6気筒ガソリン
乙型 三菱A六一二〇VD
空冷直列6気筒ディーゼル
乗員4 名
乙型諸元は主に館山海軍砲術学校「陸戦兵器要目表」37頁右の表に拠った。

運用事績

本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車の置き換えとして配備された。

1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では、重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノー乙型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子(てつじし)」と報じられるようになる)。しかし、中国国民革命軍の精鋭第十九路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。

1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺進隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。

1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では第2戦車連隊所属の八九式中戦車が出動したが、戦闘は行われなかった。

初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、九五式軽戦車と少数の九七式中戦車とともに中戦車の主力として投入された。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。そのため、九七式中戦車では対戦車能力を向上させた新型戦車砲の開発(試製四十七粍戦車砲)が同年から行われ、これは一式四十七粍戦車砲として制式採用され新砲塔チハに搭載、また1940年(昭和15年)には攻撃力・防御力・機動力全体を向上させたチヘ車(一式中戦車)の開発が行われた。しかしながら日本の国力の低さおよび、1930年代後期から第二次大戦にかけては航空機と艦艇の開発・生産が優先され、後継戦車の開発・量産が遅延していたため八九式の改良も放置される事となった。

太平洋戦争開戦時には、九五式軽戦車・九七式中戦車への更新が進んでいたが、南方作戦フィリピン攻略戦において戦車第4連隊が装備する少数の本車が投入された。また、末期のレイテ島防衛戦(独立戦車第7中隊)やルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。

[2] – レイテ島で米軍に撮影された甲後期型

1945年(昭和20年)沖縄戦において、戦車第二十七連隊が首里北方の戦いに参加した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/八九式中戦車

チハ(新砲塔)

性能情報

全長5.55 m
車体長5.52 m
全幅2.33 m
全高2.23 m
重量57 mm 砲搭載型
14.3 t(全備 15.0 t ‐ 15.6 t[注釈 1]
新砲塔
14.8 t(全備 15.8 t)[1]
懸架方式独立懸架および
シーソー式連動懸架
速度38 km/h
行動距離210 km
主砲九七式五糎七戦車砲(チハ)一式四十七粍戦車砲(チハ改)
副武装九七式車載重機関銃×2
装甲前面25 mm側面25-20 mm後面20 mm上面10 mm底面8 mm防盾50 mm
エンジン三菱SA一二二〇〇VD
空冷V型12気筒ディーゼル
150 hp/1,500 rpm
170 hp/2,000 rpm
排気量21,720cc
乗員4 名(47mm砲搭載型は5名説もあり)

運用事績

チハの運用事績を参照してください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/九七式中戦車

九五式

性能情報

全長4.30 m
車体長4.30 m
全幅2.07 m
全高2.28 m
重量自重6.7t[1] 全備重量7.4t
懸架方式シーソー式連動懸架
速度40 km/h (最大)
31.7 km/h (定格)
行動距離240 km
主砲九四式三十七粍戦車砲
ないし
九八式三十七粍戦車砲
(120発)
副武装九一式車載軽機関銃×2
ないし
九七式車載重機関銃×2
(車体前部・砲塔後部 3,000発)
装甲砲塔外周12mm上面9mmハッチ6mm車体前面上・下部12mm前面傾斜部9mm後面10mm上面前部9mm上面後部6mm底面9mm
エンジン三菱A六一二〇VDe
空冷直列6気筒ディーゼル
120 hp (最大)
110 hp (定格) 
排気量14,300cc
乗員3名(車長、操縦手、機関銃手)

運用事績

日本陸軍の戦車部隊は「戦車連隊」という単位が基本で、各戦車連隊は3~5個「戦車中隊」(1個中隊は14両前後)で編成されていた。通常の場合、その第1中隊は九五式軽戦車のみで、その他の中隊は九七式中戦車で編成され、「連隊本部」や「九七式中戦車中隊」にも2、3両の九五式軽戦車が配備されていた。「捜索連隊」(旧騎兵連隊)が母体である「戦車連隊」は、「九五式軽戦車中隊」のみで編成される場合が多かった。「戦車連隊」の他に、師団が持つ「戦車隊」が存在する場合が有り、その場合も九五式軽戦車が主力であった。

本車は、他国の戦車の設計思想が対戦車戦を意識するようになりつつある中で開発された、日本初の対戦車戦闘を考慮した戦車である。しかし、その対戦車能力は低く、敵戦車との戦闘では常に苦戦を強いられた。一方で機動力が優れており、有力な機甲兵器・対戦車兵器を持たない軍隊との戦闘ではそこそこの活躍をみせた。

初めて九五式軽戦車が本格的に投入されたノモンハン事件では、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、ソ連軍T-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破に成功した事例も存在する。これは猛訓練の結果でもあり、無線をほとんど使わずに行動する「以心伝心」の様なものであったとされるが、基本的に装甲が薄い同時期の軽戦車が相手であれば本車の九四式三十七粍戦車砲でも対応可能だったことも窺える。ただし、同事件での戦車部隊の作戦期間は短期間だったこともあり、戦車単独での戦果はごく少なく、また本車も一部が鹵獲されている。同事件でソ連軍戦車を多数撃破したのは歩兵連隊に配備された九四式三十七粍砲(対戦車砲)であり、敵味方ともその戦果を高く評価している。

日本と友好関係にあったタイにも40輌から50輌が輸出され、太平洋戦争の開戦前に仏領インドシナとの間に起こった国境紛争で活躍した。ただし、温度変化の影響か、1/4以上の車輛について装甲に自然にひび割れが生じる不具合が起き、クレームが付けられる事態となった。

太平洋戦争大東亜戦争)緒戦である一連の南方作戦の内、フィリピン攻略戦においてアメリカ極東陸軍第192戦車大隊(en:192nd Tank Battalion)所属のM3軽戦車と遭遇した事例(1941年12月22日、アメリカ軍にとって第二次世界大戦最初の戦車戦とされる)では、九五式軽戦車がM3軽戦車小隊5両を撃退することに成功したものの、ビルマ攻略戦にてイギリス・インド軍のM3軽戦車と遭遇した事例(1942年3月5日)では、九五式軽戦車が次々と命中弾をあたえたにもかかわらず、全て跳ね返された。

M3軽戦車はフランス戦の戦訓からM2軽戦車を元に開発され、本車の約2倍の重量があり(12.7tと八九式中戦車よりも重い)、車体前面で38mm、防盾部で51mmの重装甲が施されていた。これは九四式三十七粍戦車砲では砲口初速でも射貫できない装甲厚である。また、M3_37mm砲は当時の同口径の戦車砲・対戦車砲の中では最も高性能であり、有効射程内のどの距離でも九五式軽戦車の装甲を正面から貫通できる性能を持っていた。九五式軽戦車は、最終的にはM3に体当りまでして応戦する羽目に陥った。

一方でエンジンの故障は少なく長距離走破にもよく耐え、特にマレー作戦においては九七式中戦車とともに電撃戦を行い活躍した。中にはマレー半島からスマトラ島へ転戦し、2,000km以上の走行に耐えた車輛もあった。

大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため、タラワの戦いペリリューの戦いサイパンの戦い硫黄島の戦い沖縄戦占守島の戦いなど終戦に至るまで様々な戦線へと投入された。

タラワの戦いにおいては本車及び九四式三十七粍砲によってアメリカ海兵隊M4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する。タラワの戦いでは上陸してきたアメリカ海兵隊のM4中戦車と交戦し、M4中戦車の初弾を躱した九五式軽戦車が37mm砲を発砲して、砲弾がM4戦車の砲口から砲身に侵入し撃破したとされている(アメリカ側の記録では海兵隊第1戦車大隊C中隊第3小隊所属の車輌「Charlie」は47mm対戦車砲による撃破となっているが、タラワ防衛を担当していた日本海軍の第三特別根拠地隊に配備されていたのは九五式軽戦車及び九四式三十七粍砲であり、一式機動四十七粍砲の配備は確認されていない)。[27]

この他にも、M4中戦車を撃破した事例が存在し、ペリリューの戦いでは、上陸してきたM4中戦車と交戦し、九五式軽戦車の放った砲弾が、M4中戦車の砲塔と車体の間に食い込み、砲塔の旋回を不能にして撃破した。フィリピンの戦いでは、ルソン島バギオ付近の峠で九五式軽戦車とM4中戦車が至近距離で遭遇し、驚いたM4中戦車の乗員が運転を誤り谷に転落した。これは撃破というより交通事故である。

硫黄島には本車12両と九七式中戦車(新砲塔)11両を装備する戦車第26連隊(連隊長男爵西竹一陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定トーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・擬装されていたとされているものの、実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である。[28]

占守島には本車25両、九七式中戦車(新砲塔)39両を擁する精鋭部隊である戦車第11連隊(連隊長:池田末男大佐)が展開しており、ソ連軍上陸後は連隊長車を先頭に四嶺山のソ連軍に突撃を行って撃退、四嶺山北斜面のソ連軍も後退させている。ソ連軍は対戦車砲4門・対戦車銃約100挺を結集し反撃を行い、池田連隊長車以下27両を擱座・撃破したが、四嶺山南東の日本軍高射砲の砲撃を受け、また日本側援軍の独立歩兵第283大隊が到着し残存戦車とともに参戦したため、上陸地点である竹田浜方面に撤退した。

また、本車は海軍陸戦隊でも使用されており、1942年8月-9月に行われたニューギニア戦線ラビの戦いでは呉第五特別陸戦隊戦車隊が本車2両を装備している。8月27日の夜襲では、本車の活躍によってオーストラリア軍の第一線陣地を突破したものの、滑走路付近にて敵の反撃を受け、また泥土によって行動不能となったため放棄されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/九五式軽戦車

特二式

性能情報

全長7.42 m(フロート付き)
車体長4.80 m(フロート無し)
全幅2.8 m
全高2.3 m
重量12.5 t(フロート付き)
9.15 t(フロート無し)
速度37 km/h(陸上)
9.5 km/h(水上)
行動距離320 km
140 km(浮航)
主砲一式37mm戦車砲×1(132発)
副武装九七式7.7mm車載重機関銃×2
(主砲同軸機銃および車体前方機銃)(3,500~3,900発)
装甲6~12 mm
エンジン三菱A六一二〇VDe
空冷直列6気筒ディーゼル
110 馬力
乗員6 名

運用事績

本車は終戦までに約180輛が完成し、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備された。搭載砲は既に威力不足となっていたものの、貴重な装甲戦力として重宝された。

初の実戦となったのはクェゼリンの戦いであった。サイパンの戦いでは10輛が配備され、上陸作戦ではないためフロートは未装着であったが、プロペラスクリューは装着している[3]フィリピンレイテ島の戦いでも使用された。台湾沖航空戦の戦果を鵜呑みにした大本営は同島を決戦地と捉え、多号作戦と呼ばれる強行輸送を1944年(昭和19年)10月下旬から繰り返し行った。12月7日にレイテ島を巡る戦いの事実上の終結点ともいえるアメリカ軍のオルモック湾上陸作戦が行われたが、その直後、12月11日の夜間にはマニラから第九次船団となる二等輸送艦2隻が駆逐艦夕月」・「」の護衛の下、400名の陸戦隊員と本車11輛、トラック、火砲、物資を満載してオルモック湾に到着した。

先に上陸を開始した「第159号輸送艦」はアメリカ軍第55師団から攻撃を受けるも機材を下ろし、続く「140号」も機材の6割を下ろすことに成功した。洋上でも駆逐艦隊同士の交戦が行われたものの、大破した「159号」を除く3隻は離脱することができた(ただし「夕月」は帰路に空襲で撃沈される)。

上陸部隊は激しい攻撃にあいつつも、オルモックを守っていた日本陸軍第26師団の一部と連絡を取ることに成功した。本車は更に2号ハイウェイに沿って北上を図ったが、アメリカ軍第77師団に妨げられた。やむなくルートを変更し北にあるバレンシア飛行場にいた海軍設営隊と連絡を取ろうとするも失敗し、オルモックの北西にあった海岸の町パロンポン付近に追い詰められ、壊滅した。

このほか、硫黄島などでも実戦で使われたという説もあるが、使用状況はよく分かっていない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/特二式内火艇

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