BT-42
性能情報
全長 | 5.66 m |
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全幅 | 2.29 m |
全高 | 2.70 m |
重量 | 15.0 t |
乗員数 | 3 名 |
装甲・武装 | |
主武装 | L15.55/114mm榴弾砲H18 |
機動力 | |
速度 | 53 km/h(装軌)/73 km/h(装輪) |
エンジン | M-17T V型12気筒液冷ガソリン 400 hp |
懸架・駆動 | クリスティー式コイルスプリング、後輪駆動 |
行動距離 | 375km(装輪 460km) |
運用事績
BT-42は装甲師団隷下の突撃砲大隊(フィンランド語版)に配備されたが、1943年9月にドイツからIII号突撃砲が供給されると同大隊の装備はこれに代替され、BT-42は12月に新設の独立戦車中隊に移された。
1944年6月、カレリア地峡でのソ連軍の大攻勢が始まると、独立戦車中隊は北西端にある中枢都市ヴィープリ防衛に投入された。しかし、本来歩兵の火力支援向きのBT-42が直接ソ連軍のT-34やKV-1と撃ち合うことになったこの戦いでは、砲の圧倒的な対戦車能力不足や発射速度の遅さから著しく不利な戦いを強いられた結果、8両のBT-42が失われた。残る10両は(その後おそらく実戦に投入されることなく)大戦を生きのび、そのうち1両はフィンランド、パロラ戦車博物館に現存している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/BT-42
T-26
性能情報
全長 | 4.65m |
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全幅 | 2.44m |
全高 | 2.24m |
重量 | 9.4t |
懸架方式 | リーフスプリング方式 |
速度 | 28km/h |
行動距離 | 175km |
主砲 | 45mm戦車砲M1932 |
副武装 | 7.62mm機関銃DT×1もしくは2 |
装甲 | 砲塔防盾 25mm 全周 15mm 車体前・側面 15mm |
エンジン | GAZ T-26 空冷水平直列4気筒ガソリンエンジン 90馬力/66kW |
乗員 | 3名 |
運用事績
スペイン内戦で共和国派側に提供されたT-26は、当時最強の対戦車戦闘能力を持つ45mm砲によって、ファシスト側に参戦したドイツのI号戦車やイタリアのL3/33といった機銃しか持たない軽戦車や豆戦車を圧倒した。スペイン内戦にて、共和国派のT-26がファシスト側のイタリア豆戦車を谷底に突き落とした事例は、世界最初の戦車対戦車の体当たり攻撃として知られている。また、1938年の満州・ソ連間の国境紛争である張鼓峰事件では、257両(他、BT-5が81両、SU-5自走砲が13両)が投入され、日本陸軍との戦闘で9両が完全撃破され76両が損傷(うち現地で修理可能な物39両)の損害を出している。損傷は日本陸軍によるものだけでなく(後に初期のT-34やKVが陥るのと同様の)、工作精度の低さからくるギアボックスや乾式クラッチの故障によるものも多かったという。この後、ノモンハン事件でもBT戦車と共に日本陸軍相手に戦っている。
さらに、1937年型として、側面が傾斜した新型の「円錐型砲塔」タイプが登場。スペイン内戦で火炎瓶攻撃を受けた経験から、エンジンの排気口に後方がメッシュ付きで開口したフードが付けられた。また、後には車体側面も傾斜装甲になった1939-40年型が登場している。
それ以前のノモンハンでも同様に火炎瓶によって撃破されているので、根本的な解決には至っていなかったようである。実際、冬戦争では、対戦車砲とフィンランド兵の肉迫攻撃により大きな損害を出しており、途中で増加装甲を装着している。
T-26は、出現当時は比較的強力な戦車であったが(後に少し強化されるが)、15mmという主装甲の薄さと88馬力のエンジンパワー不足による速度の遅さにより、ソ連軍戦車兵には評判が良いとはいえなかった。また、BT戦車同様に、機関部付近への榴弾の直撃でガソリンタンクが燃え上がることも多かった。それでも本車は1938年夏の段階で約8,500両、最終的に12,000両以上と言う、当時世界で最も多く生産された戦車となった。凡庸な性能に過ぎなかったT-26の最大の貢献は、戦車後進国であったソ連に、装甲車両の大量生産ノウハウを確立させたことであった。これは、ソ連が独ソ戦を戦い抜き、勝利する上で、大いに意味を持つことになった。
T-26は、1939年9月17日のソ連によるポーランド侵攻時と1941年6月22日の独ソ戦開戦時における、ソ連軍の主力戦車であった。これらは独ソ戦の初期に大変な損害を出した。ソ連軍は開戦時に弾薬や燃料を十分に配備しておらず、ほとんどは放棄または破壊処理された。しかし、これによりソ連軍は、T-26などの旧式装備を処分して、T-34などの新式装備に刷新できた、という面もある。生き残った車両はBT戦車と共に満州国境の守りに回され、1945年8月の満州侵攻の際に久々に実戦に参戦することとなる。ヨーロッパからのT-34などの移動が遅れたため、この時点で1,461両が実戦配備されており、戦闘や故障で全損34両、工場で修理可能なもの122両、現地で修理可能なもの33両の損害を出している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-26_(戦車)
Ⅲ突G
性能情報
全長 | 6.77 m |
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全幅 | 2.95 m |
全高 | 2.16 m |
重量 | 23.9 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 155 km |
主砲 | 48口径75 mm StuK 40L/48(54発) |
副武装 | 7.92 mm MG34またはMG42×1-2挺(600発) |
装甲 | 前面上下部 80mm防盾基部 50mm前面上部左右傾斜部 30mm側面 30mm後面 50mm戦闘室上面 10mm機関室上面 16mm底面前後部 30mm底面中央部 15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM 4ストロークV型12気筒ガソリン 300 PS (224kW) |
乗員 | 4名 |
運用事績
1943年6月、7月、8月に10輌ずつ、1944年に29輌の計59輌のIII号突撃砲G型が供与された。これらは Ps.531-1 に始まる登録番号が与えられた (Ps.531がIII号突撃砲の車種固有番号) 。特に1943年中に到着した第一期分のうち22輌は、装甲師団(フィンランド語版、ロシア語版、英語版)所属の突撃砲大隊(フィンランド語版)の主力として44年6月のソ連軍夏季大攻勢を迎え撃つために出撃。6月14日、クーテルセルカ村近辺で初陣を迎えた。 続く数ヶ月の戦闘でこれらのIII号突撃砲は多大な出血を強いられつつも、ソ連軍車輌を多数撃破した。フィンランド軍のIII号突撃砲は“シュトゥルミ”の愛称で呼ばれ、装填手ハッチ前の機銃シールド開口部を拡張しソ連からの鹵獲品であるデグチャレフ機銃に換装、シュルツェンと呼ばれる、ドイツ戦車の側面や砲塔等に取り付けられた増加装甲を除去し装備品の配置を変えるなど、幾つかの独自改装が行われている。戦後も1960年代に入るまで現役にあり、保存状態は様々ながらフィンランド国内を中心に30輌以上が現存し、海外の博物館にドイツ軍の塗装で展示している車両も元はフィンランド軍のものという場合もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/III号突撃砲
KV-1
性能情報
全長 | 6.89 m |
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車体長 | 6.75 m |
全幅 | 3.32 m |
全高 | 2.71 m |
重量 | 45 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 35km/h(整地) 17 km/h(不整地) |
行動距離 | 335 km |
主砲 | 41.5口径76.2mm ZIS-5戦車砲(弾数98発) |
副武装 | 7.62mm車載機銃DTx3 (弾数3024発) |
装甲 | 砲塔防盾90 mm 前面75 mm側面75 mm 後面75 mm 上面40 mm車体前面上下部75+25 mm 前面傾斜部40 mm側面75mm 後面70mm 上・底面30-40 mm |
エンジン | 12気筒液冷ディーゼルV-2K 550 馬力/2150rpm |
乗員 | 5 名 車長兼装填手・砲手・操縦手・ 補助操縦手兼整備手・ 無線手兼前方機関銃手 |
諸元は 1941年型 のもの |
運用事績
1939年に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてT-34中戦車と共にソ連軍機甲部隊の中核をなした。
76.2mm砲を装備し、当時としては破格の重装甲を誇った本車は、独ソ戦当初、ドイツ軍の戦車や対戦車砲から放たれる砲弾をことごとく跳ね返し、彼らをして「怪物」と言わしめた。その一方、トランスミッションや砲の照準装置などの機械的信頼性、品質の低さはきわめて深刻であった(操縦手はハンマーでシフトレバーをたたいてギアチェンジすることもあった)。このため長時間の作戦行動では操縦士の疲労が甚だしく、補助操縦手兼整備手[注釈 1]が乗り込んでいたほどだった。また、本車の特色である重装甲は重量の著しい増加を招いて運用上大きな制約となっており、後に軽量型であるKV-1Sが作られることとなる。
独ソ開戦当初無敵を誇り、SU-152、KV-2の様な派生型や改良型を産み出したKV-1も、ドイツ軍のIV号戦車の火力強化、88 mm高射砲、ティーガー、パンターの登場により次第にその価値を減じてゆき、主砲を85 mmに強化したKV-85を最後にISシリーズにその座を譲った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/KV-1
T-34
性能情報
運用事績
-34は大量に生産されたため、半世紀を経た現在でも数百輛程度が現存している。第三世界の軍において第二線級の兵器として保管されている車両(主にT-34-85)は、21世紀に入った現在でも数多くあると見られている。
2010年のモスクワにおけるロシア対ナチス・ドイツ戦勝65周年パレードでは現存するT-34やSU-100などがパレードに自走参加した。2015年10月に北朝鮮の平壌で開催された朝鮮労働党70週年記念の軍事パレードでも、起動輪と履帯をT-54/55のものに換装したT-34-85の近代化改修型が参加している。
より古いT-34-76に関しては、現存する有名なものとしてはアメリカ・メリーランド州アバディーンのアメリカ陸軍兵器博物館が所蔵する1941年型のT-34がある。これは旧西側に現存する車輛としては最古級のものだった。更に古い76mm L-11砲を搭載した1940年型のT-34は、ロシア、ベラルーシに少なくとも各1輌、1941年型および1941年戦時簡易型は最近になって昔の戦場から回収されたものを含め少なくとも10輌以上が現存する。フランスのソミュールにある「Musée des Blindés(ソミュール戦車博物館)」では2輛のT-34を保有しており、その内の一輛は完全に稼働する状態で、それは夏の「Carrousel」戦車走行展示会において、走行する様子を展示される。フィンランドが継続戦争中に鹵獲した1941年型(Ps.231-1)も走行可能な状態となっている[24]。ナット砲塔を搭載した1942年型・1943年型はさらに多く、走行可能状態までレストアされたものも多い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-34