Ⅲ号J
性能情報
全長 | 6.41 m |
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車体長 | 5.56 m |
全幅 | 2.95 m |
全高 | 2.51 m |
重量 | 22.7 t |
懸架方式 | トーションバー方式(D/Bではリーフスプリング) |
速度 | 40 km/h(整地) 19 km/h(不整地) |
行動距離 | 155 km |
主砲 | A-F:46.5口径3.7 cm KwK 36(120発) G-J:42口径5 cm KwK 38(99発) L-M:60口径5 cm KwK 39(84発) N:24口径7.5 cm KwK 37(56~64発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34 ×2 (3,750~4,400発) |
装甲 | 砲塔前面57 mm側・後面30 mm車体前面50+20 mm側面30 mm後面50 mm |
エンジン | マイバッハ HL108TR(初期型) HL 120 TRM(量産型) 4ストロークV型12気筒ガソリン 初期型 250 馬力 量産型 300 馬力 (221kW) |
乗員 | 5 名 (車長、砲手、装填手、操縦手、機銃手兼通信手) |
運用事績
ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、結果的に見れば、第二次世界大戦初期から苦難の日々を歩むこととなった。軍の要求する速度を実現するため様々なサスペンション方式を検討することとなり、初期には生産が遅々として進まず、第二次世界大戦の開戦時は必要数が揃わなかった[2]。それでも、III号戦車は開戦時におけるドイツ軍戦車部隊の主力として扱われていたが、事実上の主力はII号戦車やチェコスロバキア製のLT-35とLT-38であった。
対フランス戦が始まるころには数も増え、北アフリカ戦、独ソ戦の頃には名実ともに戦車部隊の主力戦車となった。しかし、フランス戦での戦闘にて重装甲のイギリス軍歩兵戦車(マチルダII歩兵戦車は30トン級の装甲)を撃破することができず、敵の対戦車砲で容易に破壊されるなどの問題を指摘されていた。
独ソ戦が始まると、37mm砲搭載型のIII号はソ連赤軍のT-34(30トン級)やKV-1(40トン級)に対してまったく無力であることが明らかになった。そのため、50mm砲搭載型が戦場に投入されたが、対ソ戦には50mm砲搭載型でも非力な面が目立った。
北アフリカ戦線ではクルセーダー巡航戦車のような装甲の薄い戦車が多数をしめているイギリス戦車側の事情から有利な撃破が可能であり、特にJ型以降の型であれば充分な対戦車能力を発揮していた。だが、北アフリカにアメリカのレンドリース・参戦によってM3グラント(25トン級)、M4シャーマン(30トン級)が登場すると厳しい戦いを強いられるようになった。
本車の戦闘能力が、戦況が要求する水準に達した時期が短かったため、対戦車能力は不十分とされることが多かった。また、長砲身の75mm砲を載せるには砲塔ターレットリングの直径が小さく不可能だったため、改良も限界に達した。大戦中期には、IV号戦車に主力戦車の座を譲り、続くV号戦車パンターの実用化と共に生産は終了した。III号戦車はのちのナチス・ドイツの重戦車・主力戦車の基礎になったことからも、後の戦車開発技術に与えた影響は大きかったが、一方で基本設計時点での軽さ(基礎は15トン級)による発展性の制限により、生産と改良が実戦で要求された水準におよばなかったことから、主力戦車としては短命であった。
時間的に余裕のある時期に入念に作られたサスペンションは、後に用いられるような複雑な物ではなく、重量とのバランスが優れており、車台はアルケット社で生産される突撃砲(後にIII号突撃砲と呼称)に転用され、敗戦直前まで生産が続けられた。その結果、突撃砲は製造数においてナチス・ドイツの装甲戦闘車両としては最多となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/III号戦車
Ⅳ号/70
性能情報
全長 | 6.85m |
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全幅 | 3.17m |
全高 | 1.85m |
重量 | 24t |
懸架方式 | リーフスプリング方式サスペンション付二輪ボギー式 |
速度 | 40km/h(整地) 18km/h(不整地) |
行動距離 | 190km(整地時) |
主砲 | 48口径7.5cm Pak 39 L/48(79発) |
副武装 | 7.92mm MG42×1 MP40/MP38またはMP44×1 |
装甲 | 前面上部 60または80mmザウコップ防盾部 80mm前面下部 50mm側面 40mm後面 30mm上面 20mm底面 20mm |
エンジン | マイバッハHL 120 TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 300馬力 |
乗員 | 4名 |
【生産台数】 560輌(フォマーク社製) 206輌(アルケット社製) |
運用事績
IV号駆逐戦車は1944年3月から機甲師団や機甲擲弾兵師団の戦車猟兵大隊に配備され、以後東西両戦線で終戦まで運用された。
ドイツ軍の他、ブルガリアでは連合軍への降伏後の対ドイツ戦に際して1945年3月にソビエトから2両の鹵獲品(48口径型1両、IV/70(V)1両)が供与され、この2両は戦後もソビエト製装甲戦闘車輌が供給されて置き換えられる1950年代半ばまで装備されていた。その後はIV/70(V)が博物館に収蔵され、48口径型は他のドイツ製戦車と共にブルガリアの南方国境(トルコ国境)に固定砲台(トーチカ)として配置された。48口径型は冷戦後は半ば忘れ去られたまま放置されていたが、2000年代に入って発見されて回収され、2007年より修復の上博物館に展示されている。また、ルーマニアは戦後に社会主義体制が発足した際にソビエト赤軍が鹵獲した車両1台を与えられ、“ TAs T4”の制式名称で1950年まで装備していた。
シリアが1950年代に入手した第2次世界大戦時のドイツ軍戦車の中にIV号駆逐戦車もあり、フランスから入手した[1]6両の初期型車体48口径型は第3次中東戦争で使用されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IV号駆逐戦車
パンターG
性能情報
全長 | 8.66 m |
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車体長 | 6.87 m |
全幅 | 3.27 m |
全高 | 2.85 m |
重量 | 44.8 t |
懸架方式 | ダブルトーションバー方式 |
速度 | 45 – 55 km/h(整地) 27 – 33 km/h(不整地) |
行動距離 | 170 – 250 km |
主砲 | 70口径75mm KwK 42 L/70(79発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2(4,200発) |
装甲 | 砲塔前面110mm 傾斜11°側・後面45mm 傾斜25°車体前面80mm 傾斜55°側面40mm 傾斜40°後面40mm 傾斜30° |
エンジン | Maybach HL230P30 水冷4ストロークV型12気筒ガソリン 700 hp (520 kW) |
乗員 | 5 名 |
運用事績
最初の量産型(D型)は、ツィタデレ(城塞)作戦に間に合わせるためにさまざまな問題が未解決のまま戦場に投入された。
重量増のため転輪や起動輪、変速機など駆動系に問題が多発。また機関部の加熱問題に対応し新たに開発、装備された自動消火装置の不具合により、燃料漏れによる火災事故も発生し、2両が戦わずして全焼全損するなど、稼働率は低かった。また最初にパンターを装備し実戦投入された第51・52戦車大隊は、それぞれ既存の戦車大隊を基に再編成されたものであったが、一握りのベテランを除く乗員は、東部戦線での実戦経験の無い新兵が多く、また訓練期間も不足していた。さらに同隊の作戦将校にも実戦経験者が少なく、指揮にも問題があり、クルスク戦では十分な活躍はできなかった[2]。
後に問題点は改良され、装甲師団の中核戦車となる。それまでの中核のIII号戦車生産は打ち切り、突撃砲を除き全て本車生産ラインに切り替えられた。
1943年頃のパンターの価格は125,000ライヒスマルクで、対しIII号戦車は96,200ライヒスマルク、IV号戦車が103,500ライヒスマルク、ティーガーIが300,000ライヒスマルクと、高性能でありながら導入コストパフォーマンスが高かった[3]。しかしパンターのみでは戦車隊の損失を埋め部隊配備を充足できる程の生産が間に合わないため、長砲身(48口径)7.5センチ砲に換装されたIV号戦車(戦車連隊の第二大隊装備)は生産を続行、最後までパンター(第一大隊装備)と併行生産された。
東部戦線
戦場に大挙出現したパンターへのソ連軍の反応は素早く、クルスクの戦いで損傷し、戦場に放棄された31両のパンターは徹底調査された。結果、砲撃で撃破されたものはこのうちの22両で、傾斜前面装甲を撃ち抜けた砲弾は一発も無く、一方機関部付近に被弾すると容易に炎上するなどの弱点も発見している。またこの中でT-34によって撃破されたのはたった1両であった。しかし1943年後半でも赤軍戦車部隊は、1941年と同様76.2mm砲装備のT-34が主力のままだった。この砲はパンター前面装甲には力不足で、撃破するには側面に廻りこまねばならなかったが、パンターの主砲はどの方向からでも遠距離からT-34を撃破できた。そこで85mm砲と三人乗り大型砲塔装備のT-34-85が開発された。T-34車台を使用したSU-85、SU-100など新型自走砲も投入された。1944年半ばまでには赤軍はパンターよりはるかに多くのT-34-85を前線投入していた。
1944年3月23日のドイツ軍によるドイツ戦車とソ連T-34-85およびIS-2(122mm砲装備)の比較では、パンターは正面戦闘ではT-34-85よりはるかに優れ(パンターG型は2000mでT-34-85の前面装甲を貫くが、T-34-85はようやく500mでパンターG型の砲塔前面装甲を貫通する)、側面と背面ではほぼ互角で、IS-2に対しては正面では互角だが、側面と背面では劣るとされた。1943年と44年にはパンターはIS-2を除くあらゆる連合軍戦車を2000m遠方から撃破でき、ベテラン乗員のパンターは1000m以内で90%以上の命中率を達成した。
西部戦線
パンターは1944年初めのアンツィオの戦闘でようやく初めてアメリカ軍、イギリス軍の前に姿を現したが、その時は少数だった。その時にはアメリカ軍は既にソ連軍からパンターの詳細な情報を入手しており、アメリカ陸軍情報部が発行していたアメリカ兵向けの戦訓広報誌『Intelligence Bulletin』において、詳細なスペックと簡単な分析を記述している。そこでは「装甲は厚いが高速で、ドイツ軍が高く評価してきたM4シャーマン戦車と同じ速度である」「ティーガーより軽量で速度と操縦性に優れる」としながらも、ソ連軍からの情報として「覗き穴、ペリスコープ、砲塔と砲盾の基部は小銃や機関銃の射撃でも有効である」「54mm以上の口径の砲であれば、約800mの距離でも砲塔には有効である」「大口径砲や自走砲は、通常の距離であればパンターを効果的な射撃で戦力外にできる」「側面と後面装甲は口径45mm以上の徹甲弾で貫通できる」「焼夷弾はガソリンタンクだけでなく、運転席すぐ後ろの弾薬庫に対しても有効」と記述されている。しかし、まとめとして「パンターは手ごわい兵器であり、ドイツ軍の紛れもない強みとなる」と警戒を呼び掛けている[4]。
パンターのライバルは、連合軍で配備が進んでいたM4シャーマン戦車となった。アメリカ軍はパンターの詳細な情報を持っていたものの、イタリア戦線などで交戦頻度が稀であったことから、ティーガー同様、部隊に少数配備される重戦車と誤った認識をしており、既に決定していた76.2㎜砲型の製造以外には対策をとらなかった[5]。これは、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲搭載のシャーマン ファイアフライの開発を行っていたイギリス軍とは対照的であった[6]。そのためノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、想定以上の数のパンターやティーガーと交戦したM4の75㎜砲の非力さが明らかになった[7]。また、東部戦線で経験を積んだドイツの戦車エースたちの活躍は目覚ましく、本車に搭乗したエースとしては、第2SS装甲師団のエルンスト・バルクマンSS曹長が有名である。特に有名な活躍は、1944年7月27日にフランスのサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる[8]。のちにこの曲がり角は『バルクマンコーナー』と呼ばれ有名になる[9]。その翌日も多数のM4を撃破し、2日間で15両にもなったといい、7月30日には乗車を撃破されるも脱出成功している。同年12月、古いD型で「バルジの戦い」に参加したバルクマンは夜間、敵戦車の列に紛れこみハッチから漏れる車内灯の色で識別し攻撃、M4戦車数両を撃破している[10]。
このようなパンターの活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが[11]、そのような事実はなく、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではないかとの指摘もある[12]。
個別の攻撃性能で優位性を比較した場合、パンターの戦車砲は500mの距離で垂直鋼板に168㎜の貫通力があり、M4シャーマン正面装甲を貫通可能であった。一方M4シャーマンの M1 76mm戦車砲は口径こそパンターの戦車砲と変わらなかったが、同じ距離で116mmの貫通力しかなく、パンター正面装甲貫通は不可能でパンターに優位性があった。しかし正面でも砲塔の防盾は貫通でき、また側面装甲であれば1,800mの距離からでも十分貫通できた。またアメリカ軍は、パンターやティーガー対策として、新型高速徹甲弾の生産を強化していた。M4シャーマンの71発の砲弾積載量のうち、高速徹甲弾は1~2発しか割り当てられず充分な砲弾数ではなかったが、500mで208㎜の垂直鋼板貫通力を示し、パンターの戦車砲の貫通力を上回る[13]。ドイツ軍は自軍戦車の特徴である、強力な戦車砲と厚い装甲を活かした長距離での戦闘を望み、戦車兵に1,800mから2,000mでの戦闘を指示したが、想定通りの距離での戦闘とはならず[14]、実際にはアメリカ軍がドイツ軍の戦車を撃破した平均距離は893mに対し、ドイツ軍がアメリカ軍の戦車を撃破した距離は946mと、大差はなかった[15]。これはパンターが関係した戦闘でも同じであり、パンターが直面した平均交戦距離は850mと、1,400mから1,750mのドイツ軍が望んだ長距離での戦闘はわずか5%、それより長い距離の戦闘は殆どなかった[7]。
実際に戦われた戦闘距離であればパンターのM4シャーマンに対する優位性は殆どなく、印象とは異なり、パンターが一方的に撃破される例も存在した。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している[16]。
アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破、また戦闘指揮所を攻撃してきた14輌のパンターをM18ヘルキャットの小隊が迎え撃ち、一方的に8輌を撃破し撃退している[17]。アラクールの戦いで第37戦車大隊は合計55輌のティーガーとパンターを撃破している[18]。
バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた第9機甲師団(英語版)M4シャーマン4輌を待ち伏せ攻撃により撃破して一矢報いている[19]。なお、攻撃に失敗したドイツ軍は、フレヌー攻略を断念、この夜に3個パンター中隊でマンエーを攻撃したが、このときパンターに乗ったバルクマンが負傷している[20]。翌12月25日のノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破しドイツ軍を撃退している[14]。
車両単体のスペックならM4シャーマンを凌駕したパンターだが、高価で構造が複雑過ぎのうえ、ドイツ国内の工業能力低下による品質低下で、戦場でカタログスペック通りの働きができなかった。バルジの戦いで多数投入されたパンターG型の中には、砲塔の正面装甲にM4シャーマンの2発の砲弾が命中して、砲弾は貫通はしなかったが、装甲が裂けて撃破された車両もあった。また低い稼働率も致命的で、バルジの戦いでは415輌のパンターが投入されたが、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌だった。一方でM4シャーマンは同時期にあらゆる原因で320輌喪失したが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働し、パンターとの差は歴然であった[21]。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある[22]。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった[23]。
攻守 交戦数 交戦したパンターの数 撃破されたパンターの数 交戦したM4の数 撃破したM4の数 攻撃 20回 98輌 59輌 115輌 6輌 防御 9回 47輌 13輌 68輌 10輌 合計 29回 145輌 72輌 183輌 16輌 29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データ数が不十分で両戦車の性能差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかは証明されていない[24]。
ソ連軍ではパンターを優秀な戦車と認識、前線部隊ではパンターがしばしば優れた戦功に対する褒章として与えられ、鹵獲車両による臨時部隊も編成された。戦車兵たちにはパンターは大変好評であり「鹵獲されたティーガーとパンターは修理してはならず、故障したら破壊して放棄せよ」との規則があったにもかかわらず、できるだけ長く使用するため努力が払われた。ドイツ乗員のための運用マニュアルもロシア語に翻訳されて、鹵獲したパンターの乗員に支給された。
これはパンターに限らないが、鹵獲敵戦車を使用すると友軍からの誤認射撃を受けるケースが頻発したため、それを恐れ一部ソ連軍戦車兵の中には鹵獲パンターに乗ることを避ける者もいた。
ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他に親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘投入された。戦後1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車供与が始まるまで使用された。
ブルガリアは戦後社会主義体制となり1946年にブルガリア人民共和国発足の後、ソ連から鹵獲品のパンターを15両程度供与され、同じく鹵獲品のIV号駆逐戦車や枢軸国時代にナチスドイツより提供されたIV号戦車などと共に、ソ連製戦車を供与されるまでの間の装甲戦力としていた。これらの車両は1948年頃まで現役として使用され、ブルガリア軍にソ連より戦車が供与された後も、トルコとの国境地帯に固定砲台(トーチカ)として配置され、1980年代まで用いられた。
ソ連軍に鹵獲されたパンターは、ソ連軍の他、親ソ派ルーマニア人の義勇部隊、第1ルーマニア義勇師団“トゥドル・ウラジミレスク”に他の鹵獲ドイツ軍装甲車両と共に与えられ、同師団の機甲戦力として戦闘に投入された。戦後、1947年にルーマニア人民共和国が成立し、同部隊が義勇師団からルーマニア陸軍の正規部隊となって機甲師団に改変された後も装備され、1950年代に入りソ連より戦車の供与が始まるまで使用された。
また、フランスは第二次世界大戦後、ドイツ軍の残存車両を再生したものに加えて占領時代の工場で生産したパンターで戦車部隊を編成している[25]。これらフランス製パンターは1951年頃まで現役で運用され、退役後も1961年頃までパリ近郊で予備保管されていた。後に少数が武装を撤去して民間に払い下げられており、重量物トラクターやクレーン車に改造されて使用されている。
2015年7月初旬、ドイツ北部の民家から8.8cm FlaK 18/36/37と共に1両のパンターがドイツ連邦軍に押収された[26]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/V号戦車パンター
ヤークトP
性能情報
全長 | 9.87 m |
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車体長 | 6.87 m |
全幅 | 3.27 m シュルツェン装着時3.42 m |
全高 | 2.715 m |
重量 | 45.5 t |
懸架方式 | ダブルトーションバー方式 |
速度 | 55 km/h(整地) 26 km/h(不整地) |
行動距離 | 250 km(整地)100km(路外) |
主砲 | 71口径88 mm Pak 43/3 もしくは 43/4(60発) |
副武装 | 7.92 mm MG34機関銃 ×1 |
装甲 | 前面上部 80mmザウコップ防盾部 96mm前面下部 65mm側面上部 52mm側面下部 40mm後面 40mm上面 13mm底面前部 20mm底面後部 13mm |
エンジン | マイバッハHL230 P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 700 hp (515 kW) |
乗員 | 5 名 |
運用事績
新兵器を投入するには定数を満たして集中運用することが望ましいが、ヤークトパンターはそのような原則は無視して戦場へ送られ続けた。ヤークトパンターの配備された時期のドイツ軍は、戦況が日に日に悪化しており、新品の兵器を補充された部隊が即時投入されることは珍しいことではなかった。また兵器への習熟、訓練期間はなく、大部隊を編成し演習を行うことも無理であった。
1944年、まずヤークトパンターは第654(重)戦車駆逐大隊へ配備された。同大隊はそれまで東部戦線でフェルディナント重駆逐戦車を装備して戦っており、戦力の補充のため後送された。次に第559(重)戦車駆逐大隊と第519(重)戦車駆逐大隊が装備を改編した。第560(重)戦車駆逐大隊と第655(重)戦車駆逐大隊がそれにつづいたが、定数を満たすものではなく、その補充も遅々としたものだった。
第654(重)戦車駆逐大隊は西部戦線へ投入され、1944年7月30日の報告では、同大隊は第LXXIV戦車軍団に配属されており、うち3輌のヤークトパンターが、イギリス第6近衛戦車旅団のチャーチル戦車1個中隊を迎撃した。2分間の交戦の後に、チャーチル戦車2個中隊が援軍に現われ、ヤークトパンターは被弾して丘の背後へ後退した。この戦闘ではヤークトパンター2輌が履帯に被弾し、放棄された。チャーチル戦車はこの短い戦闘で11輌の損失を出した[18]。この後の激しい戦闘によって消耗した同大隊は、1944年9月9日、グラーフェンベーア演習場へ補充のため後送されることが決定した。
1944年11月18日、第654(重)戦車駆逐大隊はグラーフェンベーア演習場から再び西部戦線へ鉄道輸送された。11月20日から30日までの連続作戦によってヤークトパンター18輌が失われた。戦果は敵戦車52輌撃破、9輌中破、対戦車砲10門の撃破であった[19]。
第563(重)戦車駆逐大隊は1945年1月20日にアルレンシュタインで編成を行い、21日に終了するや出動となった。同大隊はヤークトパンター18輌とIV号駆逐戦車24輌を装備し、以後10日間の戦闘で敵戦車58輌を撃破した。ヤークトパンターは13輌を失った。この内訳は燃料不足による爆破放棄が8輌、行動不能による爆破放棄が1輌、長期間修理の後に爆破放棄が3輌であり、敵に撃破されたものは1輌のみであった[20]。
1945年1月以降にもなると、ヤークトパンターの敵は敵戦車ではなく、燃料不足、補修部品の不足、初期不良、生産遅延であった。五月雨的に、基準も編成も考慮せず、生産するそばから最寄りの部隊へ配備し、戦場へ即投入するという状況もヤークトパンターの喪失を招いた。適切な補修のないまま分散配置されたヤークトパンターがひとたび故障を起こした場合、回収の手立てはほぼないに等しかった。例としては、SS第12戦車師団の戦車連隊に組み込まれた第560(重)戦車駆逐大隊のヤークトパンターが挙げられる。この車輛は1945年3月8日に故障し、回収作業が行われたのは3月21日であった。回収は連隊固有の戦車を優先して行われ、ヤークトパンターの作業は後回しにされた。また戦車連隊は大隊の事情を無視し、修理の終ったヤークトパンターを逐次不特定の部隊へ割り当てた。こうした戦局の末期的な悪化に伴う組織上の不備と混乱によって、故障を起こし、あるいは燃料の尽きたヤークトパンターはドイツ戦車兵自らの手で爆破放棄されていった[21]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤークトパンター
ティーガーⅠ
性能情報
全長 | 8.45 m[1] |
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車体長 | 6.316 m[1] |
全幅 | 3.705 m[1] |
全高 | 3 m[1] |
重量 | 57 t(戦闘重量)[1] |
懸架方式 | トーションバー方式[1] |
速度 | 40 km/h[1](整地) 20 – 25 km/h[1](不整地) |
行動距離 | 整地100 km、不整地60 km[2] |
主砲 | 56口径8.8 cm KwK 36 L/56(92発)[1] |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2[1] |
装甲 | 前面 100 mm側面および後面 60~80 mm上面および底面 25 mm[1] |
エンジン | マイバッハ HL230 P45 水冷4ストロークV型12気筒ガソリン[1] 700 PS (700仏馬力,690 hp ,515 kW) |
乗員 | 5 名 |
運用事績
ティーガーIはもともと陣地突破のための攻撃用兵器として設計されたが、実戦投入されたときには軍事情勢は劇的に変化しており、主に敵戦車隊の突破を阻止する「火消し役」としての機動防御戦闘に多用された。
ティーガーIは、主要な敵戦車であるT-34、M4中戦車、チャーチル歩兵戦車を1,600メートル以上の遠方から撃破できた。対照的に、76.2mm砲を装備したT-34はティーガーIの前面装甲を0距離でも貫徹できなかった。側面装甲はBR-350P APCR弾を使用すればおよそ500メートル以内で貫けた。T-34-85中戦車の85mm砲はティーガーIの正面装甲を500メートルで射貫できた。IS-2の122mm砲は、ティーガーをあらゆる方向から1,000メートルで撃破することができた。
M4シャーマンの75mm砲はティーガーIの正面装甲を接射でも貫けず、側面装甲も300メートル以内でないと貫けなかった。アメリカ軍の76mm砲は、一般的なAPCBC弾を使用した場合、いかなる距離でもティーガーIの前面装甲を貫けなかったが、供給量の少なかったHVAP弾を使用すれば1,000メートルで前面装甲を貫けた。シャーマン ファイアフライに使用されるイギリス製17ポンド砲は、APDS弾を使用した場合、1,500メートル以上で前面装甲を貫けた。
ただし、熟練した搭乗員はティーガーIの装甲を増加させた。敵戦車に対して車体を斜に構えることにより、傾斜装甲と同じはたらきをつけたのである。正面装甲を敵に対して45度傾けた場合、敵弾が貫通しなくてはならない装甲は換算すると141mmになった。さらにこれに減衰効果が加わり、貫通は難しくなった。
通常、徹甲弾はその存速に貫徹能力を持つ。したがって戦闘距離が短くなればより厚い装甲を貫くことができる(第二次世界大戦ではほとんど使用されなかったHEAT弾を除く)。ティーガーIの主砲の大きな貫通威力は、敵戦車を相手が反撃できない遠距離から撃破できることを意味する。ロシアなどの平地の多い開けた地形ではこれは大きな戦術的優位だった。敵戦車はティーガーIを撃破するために側面からの攻撃を強いられた。
しかし一方でオードナンス QF 17ポンド砲やZiS-2 57mm対戦車砲のような対戦車砲はティーガーの正面装甲を貫通するに十分な威力をもっており、よく準備された対戦車陣地を正面装甲に頼って突破することは不可能であった。
ティーガーIは1942年8月29日に初めてレニングラード近郊のムガにおける戦闘で使用された。ヒトラーの圧力で計画より数ヶ月も早く使用されたため、初期型の多くは機械的な問題を抱えたままであることが判明した。1942年9月23日の初陣で、投入されたティーガーIの4両は全てが湿地にはまり込み、ソ連のトーチカに据えられた対戦車砲により撃破された。うち3両は回収に成功したものの、1両は回収不能となった。これは爆破処分されたが鹵獲され、ソ連に同戦車を研究し、対抗手段を準備する機会を与えた[25]。
北アフリカ戦線での最初の戦闘では、ティーガーIは開けた地形で連合国戦車を圧倒できた。しかし機械的欠陥により、同時に投入できたティーガーIの台数はごく少なかった。レニングラードでの経験をなぞるように、少なくとも1両のティーガーIはイギリス軍の6ポンド対戦車砲により撃破された。
側面に着弾しながらも貫通しなかった砲弾痕 ティーガーIの過大な重量から渡れる橋は限られており、地下室のある建物跡を横切ることは危険だった。もう一つの弱点は、油圧旋回する砲塔の回転速度が遅いことだった。砲塔は手動で動かすこともできたが、照準の微調整に用いられる程度であった。
ティーガーIの最高路上速度は38km/h、好敵手のIS-2の37km/hと同程度で、共にほとんどの中戦車よりかなり低速だった。ただし操縦性はティーガーの方が容易で優れていることは、両軍の報告書で明らかになっている。ティーガーIの初期型の最高速度は45km/hほど出たが、1943年秋にエンジンが改造された際に38km/hに落とされた。ティーガーIはまた常に信頼性の不足に悩まされた。ティーガーIの部隊は故障により定数不足のまま戦闘に参加することが多く、部隊での路上行軍ではほとんど常に故障によって脱落する車両が出た。また燃費が悪く、航続距離も短かった。しかし、履帯幅の広さが幸いし、重戦車であるにもかかわらず、ソ連のT-34を例外として大半の戦車より面積当たりの接地圧が低かった。
防御戦闘では低機動力はあまり問題にならず、ティーガーIの装甲と火力は全ての敵にとって恐怖の的だった。遭遇確率の高いパンターの方がより大きな脅威だったが、ティーガーIの存在が連合軍兵士に与えた心理的影響は大きく、「タイガー恐怖症(タイガー・フォビア)」を引き起こした。ティーガーとの遭遇は極めて稀であった。連合軍兵士はティーガーIを見かけると立ち向かうよりも逃げ出したが、シュルツェンが装着されたIV号戦車のようにティーガーに似ているだけの戦車に対しても同様のことが起こった。ソ連のT-34もティーガーIを恐れた。それはまるで以前ドイツのIII号戦車がソ連の重戦車を恐れたのと同じであった。連合軍側で受け入れられた戦術は、一団となってティーガーに当たることであった。1両がティーガーの注意を引き付けている間に、他が側面や背面を狙う。ティーガーIに搭載されている弾薬や燃料は、スポンソンに格納されているため、側面を貫通すれば撃破できることが多かった。しかしこれはリスクのある戦術であり、連合軍側は複数の戦車を失うこともあった。ティーガーの部隊を撃滅するには実に巧妙な戦術が必要だった。
チュニジアに進出した第501重戦車大隊の極初期型 ティーガーIは軍直轄の独立重戦車大隊に配備されることが多かった。これら大隊は突破作戦でも、さらに反撃戦においても激戦地に投入された。陸軍の精鋭である大ドイツ師団や武装SS師団の内でも番号の若い精鋭師団は、ティーガーIをある程度装備していた。
クルスクの戦いにおいて、1943年7月7日、SS第1戦車連隊第13中隊第2小隊のフランツ・シュタウデッガー軍曹が指揮する1両のティーガーIは、テテレーヴィノ付近でソ連軍のT-34約50両との遭遇戦闘において約22両を撃破した。シュタウデッガーは弾薬を使い果たし、敵の残車両は退却した。この戦果でシュタウデッガーは7月10日に騎士鉄十字章を受章した。
1944年8月8日、SS第102重戦車大隊第1中隊のヴィリー・フェイ曹長が指揮するティーガーIは、イギリス軍第11機甲師団と遭遇した。彼はシャーマン戦車14両、装甲車12両、対戦車砲1門を撃破し、弾薬が尽きた。フェイ曹長は別のティーガーIから主砲弾を調達し、同日中にもう1両を撃破して計15両のシャーマンを撃破した。同戦車大隊はノルマンディーの戦いで保有するティーガーI全車を失ったが、227両の連合軍戦車を6週間の内に撃破した。なお同戦車大隊最後の稼動ティーガーIは前述のフェイ曹長が指揮し、8月28日ルーアンで渡河に失敗しセーヌ川に沈んだ。
ミハエル・ヴィットマンはティーガーIの多くのエースの中でも最も有名な戦車長であった。彼は様々な車両を乗り継いで戦い続け、最後にティーガーIに搭乗した。ヴィットマンは一日で戦車数両を含む20台以上の敵車両を破壊したヴィレル・ボカージュの戦いで、柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章したが、1944年8月8日に戦死した。
10名以上の戦車長が100両以上の敵戦車を破壊した。ヨハネス・ベルターは139両以上[26]、オットー・カリウスは150両以上[26]、クルト・クニスペルは168両以上[26]、ミハエル・ヴィットマンは138両以上[26]、ヴァルター・シュロイフは161両以上[26]、アルベルト・ケルシャーは100両以上を撃破した[26]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ティーガーI
ティーガーⅡ
性能情報
全長 | 10.28 m |
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車体長 | 7.38 m |
全幅 | 3.75 m |
全高 | 3.09 m |
重量 | 69.8 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 38 km/h(整地) 20 km/h(不整地) |
行動距離 | 170 km(整地) 120 km(不整地) |
主砲 | 8.8 cm KwK 43 L/71(84発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×3 (内1挺対空用) |
装甲 | 砲塔前面180 mm 傾斜10°側面・後面最大80 mm 傾斜20°車体前面最大150 mm 傾斜50°側面・後面80 mm 傾斜25°上面・下面最大40 mm |
エンジン | マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒水冷ガソリン 700 PS(690 hp,515 kW) / 3,000 rpm |
乗員 | 5 名 |
運用事績
ティーガーIIの実戦投入は第503重戦車大隊による1944年7月18日のノルマンディー上陸作戦での戦闘が最初である。同大隊は東部戦線で大きく消耗した後、1944年6月にティーガー45両で再編成がなされ、その内の12両がポルシェ砲塔を装備したティーガーIIであった。東部戦線では第501重戦車大隊が1944年6月25日から8月7日にかけて45両のティーガーIIを受領、8月12日にヴィスワ川上のバラノフ橋頭堡での戦いに使用した。その後もバルジの戦い、春の目覚め作戦、ベルリンの戦いなど弾薬・燃料不足に苦しみながらも要所要所に投入された。
結果的にドイツ軍が守勢一方となってから実戦投入されたことで、ティーガーIIはその重装甲と強火力の威力を発揮できたといえる。実際、最後の攻勢であるバルジの戦いでも、パイパー戦闘団にSS第501重戦車大隊(一部SS第509重戦車大隊より編入した車両もあり)の約20両が参加しているが、先頭に立って戦ったのは35両ずつのIV号戦車とパンターで、最後尾を進む本車はカーブの多い狭い小道を進撃中に、頻繁なギアチェンジにより最終減速機を破損し脱落するものが相次いでいる。また春の目覚め作戦に参加した本車も、その重量から地面が陥没してしまい放棄されるなど実力に対して散々な結果を残している。
ティーガーIIの主砲は、実戦に投入された全ての敵戦車の有効射程外からの射撃で撃破が可能であった[注 1]。なお、有効射程はT-34の3倍近くあったといわれている。
また、燃費が路上でリッター162メートルと機動力が欠けていることもあり、大戦末期で燃料不足の中、燃料切れで立ち往生し、無傷のまま放棄される車両も多数あった[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ティーガーII
ヤークトT
性能情報
全長 | 10.654 m |
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車体長 | 7.62 m |
全幅 | 3.625 m |
全高 | 2.945 m |
重量 | 75 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 41.5 km/h(整地) 20 km/h(不整地) |
行動距離 | 170 km 路外 120 km |
主砲 | 55口径128 mm Pak44 L/55(40発) |
副武装 | 7.92mm MG34機関銃 1挺 |
装甲 | 戦闘室前面250 mm 傾斜75°(水平に対して。)側面80 mm 傾斜65°後面80 mm 傾斜80°上面40 – 45 mm車体前面上部150 mm 傾斜40°前面下部100 mm 傾斜40°側面80 mm 傾斜65°上面40 mm 底面25 mm |
エンジン | マイバッハHL230P30 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン 700 hp/3,000 rpm (520 kW) |
乗員 | 6名 |
運用事績
ティーガー戦車を駆ってソ連戦車150輌以上を撃破したドイツ国防軍戦車エース、オットー・カリウス少尉の著した『ティーガー戦車隊』(英語版題名:Tigers In The Mud) には、レマーゲンの戦いにおいて、彼が率いた上記の第512重戦車駆逐大隊(英語版)(Schwere Panzerjäger-Abteilung 512.)第2中隊に所属する10輌のヤークトティーガーの戦いが記録されている。
カリウスは1945年からは第512重戦車駆逐大隊第2中隊の中隊長としてヤークトティーガー10輌を指揮することとなった。ヤークトティーガーは全重72トンもの重駆逐戦車だが旋回砲塔を持たないため、照準を合わせるには巨大な車体を方向転換させる必要があった。このため、操向変速機、転輪、履帯に過大な負担がかかるという無理のある設計であった。
また、8メートルもの長砲身はわずかな距離でもトラベリングクランプによる砲身固定をせずに走行すると、振動で砲身が揺動し、砲架のギアが摩耗して狂いによる照準誤差が発生したり、砲が使えなくなることも多かった。トラベリングクランプは車体正面の傾斜した前面に設けられており、解除するには乗員が車外に出る必要があった。しかも砲身の解除が必要になるのは戦闘中であることが多かったため、しばしば乗員を危険にさらすこととなった。それまで旋回砲塔のある戦車の指揮官であったカリウスは、全周方向に即応できないヤークトティーガーに非常に苦労させられた。
さらにこれらの技術的問題に加え、1945年のドイツ軍では練度の低下が問題となった。10輌のヤークトティーガーの車長のうち、東部戦線での従軍経験のある指揮官は3人程度で、残る7割は実戦経験が無かった。一例として、うまく偽装されていた2輌のヤークトティーガーの指揮官2人は、約1.5kmという迎撃に最適な距離でアメリカ軍戦車の縦隊を発見したにもかかわらず、存在しないアメリカ軍戦闘爆撃機からの攻撃を恐れて交戦しなかったうえ、現場を放棄して撤退する始末であった。その結果、過重なヤークトティーガーは走行による負荷で2輌とも故障し、うち1輌は自爆処分された。
同様の事態が再び起こることを恐れたカリウスは、部隊を指揮してジーゲン (Siegen) 谷の奥の高所から待ち伏せを行った。しかし、今度は味方であるはずのドイツ市民が谷に侵攻したアメリカ軍へ待ち伏せを通報し、カリウスの攻撃は失敗した。
ヴァイデナウではアメリカ軍戦車と遭遇戦となった。このときアメリカ軍のM4中戦車は直ちに家屋の裏に隠れたが、ヤークトティーガーの128mm砲は家屋を貫通してそれを撃破することに成功している。その直後、アメリカ軍機に発見されて爆撃されたが、損害は無かった。ただしその夜、後退時に爆弾のクレーターに落ちた1輌が破損した。もう1輌は、ヤークトティーガーを見たことの無いドイツの国民突撃隊が誤射したパンツァーファウストにより撃破された。
ウンナを出発してイーザーローンへ向かった時、距離600メートルでアメリカ軍戦車5輌を発見し、カリウスはヤークトティーガー1輌を迎撃に送り出したが、経験の無い車長は迎撃を行えなかった。地形は坂道であったが、敵に発見される前にこれを登りきり、照準可能なよう砲の俯角をとれる場所まで下ることをしなかったため、直ちに射撃できなかったのである。その間、アメリカ軍戦車5輌中2輌は逃走し、残り3輌との砲撃戦が展開された。アメリカ軍の砲撃はいずれもぶ厚いヤークトティーガーの前面装甲を撃ち抜けなかったが、ヤークトティーガーの方も1発も反撃できなかった。この際、前面装甲を敵に向けたまま後退すべきであったが、旋回して側面をさらしたヤークトティーガーは撃破され、6人の乗員全員が戦死した。この戦闘に関してカリウスは「一番良い兵器でも、訓練された兵が扱わねば何の役にも立たない」と記録している。カリウスは、最終的には残存したヤークトティーガーの砲の破壊を命じ、アメリカ軍に投降した。
以上、第512大隊第2中隊のヤークトティーガー10輌の戦果はアメリカ軍戦車1輌撃破のみで、ヤークトティーガー側は1輌が被撃破、1輌は味方の誤射で撃破され、残る8輌は戦わずして故障による放棄や自爆処分という結果に終わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤークトティーガー
エレファント
性能情報
全長 | 8.14 m |
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車体長 | 6.8 m |
全幅 | 3.38 m |
全高 | 2.97 m |
重量 | 65 t |
懸架方式 | 外装型ボギー式縦置きトーションバー |
速度 | 30km/h(整地) 15 km/h(不整地) |
行動距離 | 150 km |
主砲 | 71口径8.8 cm Pak 43/2 L/71(50発) |
副武装 | 7.92 mm MG34機関銃 |
装甲 | 戦闘室前面 200mm主砲防盾基部 100mm操縦席前面・車体前端上面 210mm戦闘室側/後面・車体前端下/側/後面 85mm戦闘室上面 38mm車体上/底面 30-20mm |
エンジン | Maybach HL 120 4ストロークV型12気筒液冷ガソリン×2基 ジーメンス・シュッケルト aGV発電機 1基D1 ジーメンス・シュッケルト 495a 交流電動機×2基 530 馬力(エンジン) 500 VA(発電機)/230 kW (312.7 馬力)(電動機) ×2基 |
乗員 | 6 名 (車長、射手、操縦手、通信手、装填手 ×2) |
運用事績
本車は、フェルディナント・ポルシェの名前にちなんで「フェルディナント」と名付けられ、1943年5月までに90輌が生産されて第653及び第654重戦車駆逐大隊に配備された。両大隊は第216突撃戦車大隊とともに第656(重)戦車駆逐連隊を構成して1943年7月のツィタデレ作戦へ投入された。
ツィタデレ作戦直前の1943年7月4日には89輌のフェルディナントが連隊に存在した。7月5日から14日までに19輌が全損となった。半数は地雷による足回り損傷のため放棄、残りは砲撃による損傷と、機関室に飛び込んできた土砂のため電気系統のショートによる火災発生が4件、また航空爆弾の直撃と、機関室通気用グリルへの重砲弾直撃による全損が1件ずつだった。当時のクルスク一帯に張り巡らされた防御陣地は、鉄条網、対戦車壕、地雷原と対戦車砲陣地パックフロントが縦深配置され、強力な砲撃支援が行われる非常に強固なものであった。8月1日までにさらに20輌が全損、その大半は行動不能になった車輌の回収が叶わず、乗員により自爆処分になった物であった。この時点で連隊のフェルディナント保有台数は50輌、うち稼働26輌、修理中は24輌だった。故障や損傷によって行動不能になった車輌は最大限の努力を払って回収され、前線の整備中隊の努力による部隊への復帰が試みられたが、部品の不足や後退に修理が間に合わないことにより、爆破処分により失われる物も多かった。
作戦開始から8月6日までに、連隊全体で敵戦車502輌と野砲約100門、対戦車砲20門の撃破を報告した。8月26日には、激しい損害を受けた連隊は、ドニエプロペトロフスクへ休養と整備のために後退した。この際、損害の大きかった第654重戦車駆逐大隊はヤークトパンター装備に改編するため残存車輌を第653重戦車駆逐大隊に引渡して後退した。このため、これ以降フェルディナントを運用している部隊は第653重戦車駆逐大隊のみとなった。
11月5日、第653重戦車駆逐大隊の戦果報告は、敵戦車582輌、対戦車砲344門、火砲133門、対戦車銃103丁、航空機3機、装甲偵察車3輌、突撃砲3輌に達した。さらに11月25日、2輌のフェルディナントは54輌の敵戦車を撃破した。11月29日の時点で、各車の走行距離は2,000kmを記録し、同隊はオーバーホールのため西方のザンクト・ペルテンへ撤退を命じられた。
用兵側からの評価は大変高かった。7月17日のグデーリアンの作成書類では、多大の損失を出しつつも常に目標を達成したと述べられている。3線陣地を5km進出し突破したものの、歩兵が砲撃に阻まれ後続できず、突破をさらに拡大する予備戦車もなかった。7月25日、大隊所属の指揮官の評価では突撃砲に並び、最高かつ最強の兵器であると報告されている。
反面、足回りのゴム部品や履帯の消耗が早く、発電用エンジンの出力不足と寿命の短さ、エンジングリルから飛び込んでくる弾片や泥などが原因で電気系がショートして炎上する問題が報告されている。7月25日のフェルディナント・ポルシェあての報告では、500kmを走行して懸架装置のトラブルは見られず、壊れたものは地雷による破損であると述べられている。ただしエンジンの故障は多く、バルブ破損、ピストン粉砕、亀裂が入るなどがみられた。これはエンジン出力に余裕がないためであった。
装甲と火力によって敵中深く進出し、地雷・砲撃等で孤立した車輌は、機銃を標準装備していなかったために歩兵の肉迫攻撃を受ける可能性があったが、動けなくなった物をKS焼夷液(ロシア語版)を発射するアンプロメット(ロシア語版)で炎上させるならまだしも、生きているフェルディナントを肉迫攻撃だけで倒したケースは、わずか1件のみである。ただし、車体機銃や同軸機銃といった対歩兵武装の欠如は報告書でも指摘されており、「エレファント」では車体前部に機銃が増設されている[注釈 1]。
特に、地雷などによる足回りへの被害で行動不能になると大重量から回収が困難となり、むざむざ修理可能な車輌を自爆・放棄することとなり、ポヌイリ駅周辺の戦闘では地雷原により第654大隊の所属車輌が多数失われた。にもかかわらず敵戦車との戦闘で失われた物は、近距離から7輌のT-34と4門のZIS-3野砲の集中射撃で、車体下部側面を撃ち抜かれた1輌以外記録されていない。
本車の戦闘力はソ連軍に大きな衝撃を与え、以来戦闘室が後部にあるドイツ軍の自走砲全体を、何でも「フェルジナント」(フェルディナントのロシア語読み)と総称するなど、強力な対戦車車輛の代名詞となった(このため、ソ連軍の報告で「フェルジナント撃破」とあっても、それはエレファントではなく他の自走砲や駆逐戦車である場合が多いため、注意が必要である)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/エレファント重駆逐戦車
マウス
性能情報
全長 | 10.085 m[1] |
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車体長 | 9.034 m[1] |
全幅 | 3.670 m[1] |
全高 | 3.630 m[1] |
重量 | 187.998 t[1] |
懸架方式 | 切頭円錐コイルスプリング ボギー懸架[1] |
速度 | 20 km/h[1](整地) 13 km/h(不整地) |
行動距離 | 186 km(整地時) 68 km(不整地時)増加タンク無しでは42km[1] |
主砲 | 55口径 12.8cm KwK44戦車砲・弾薬55発[1] |
副武装 | 36.5口径 7.5cm KwK44戦車砲・弾薬約100発、7.92mmMG34機関銃・弾薬1,000発 |
装甲 | 砲塔前面220 – 240 mm[1][2]側・後面200 mm[1]上面60 mm車体前面200 mm[1]側面180 mm[1]側面下端部100 mm後面160 mm[1]上面前部100 mm上面中後部60 mm底面50 mm |
エンジン | 液冷V型12気筒 MB509 ガソリンエンジン[3] 液冷V型12気筒 MB517 過給器付きディーゼルエンジン 1,080hp (MB509)[1][3]、1,200hp (MB517)[4] |
乗員 | 6名[1][3] |
運用事績
1945年に入り、赤軍がドイツ本土に侵攻してくることが確実となると、クンマースドルフ試験場の試験車両にも実戦投入できると判断されたものには再整備が行われた。エンジンを損傷して保管されていたマウスの試作2号車もこれを受けて同年2月から損傷したエンジンを高速艇用のエンジンを転用したダイムラー・ベンツ製の液冷ディーゼルエンジンに交換すると共に操向装置を新設計の電気式のものに変更した。この換装作業はシュコダ社によって行われている。更に、クルップ社及びアルケット社には「可能な限り早期にマウスの生産を再開すべし」との命令が下された。
1945年4月末、試作2号車はベルリンに迫る赤軍を迎撃すべく出撃し、クンマースドルフ試験場から北東に約14km離れたツォッセン(ドイツ語版)郊外に設けられたドイツ軍駐屯地[注釈 1]の敷地内にある旧捕虜収容所(Stammlager Zossen:1945年当時は最高司令部関連設備として使用)付近[注釈 2]にある、通称“ヒンデンブルク広場(Hindenburgplatz)”に配置され、司令部の防衛に充てられた。
程なくツォッセン近郊に赤軍が迫ったため、駐屯部隊および防衛部隊は撤退を決意したが、マウスは機関に不調が発生し、更に燃料不足により行動不能の状態となった。機関故障を修理できたとしても燃料補給のあてがなく、敵部隊が間近に迫っているために回収作業も時間的に不可能と判断され、赤軍に鹵獲されることを避けるために爆破処分された。
その後、試作1号車はクンマースドルフ試験場の西地区でほぼ無傷で放置された状態で、2号車はツォッセン郊外にて車体部全損の上、砲塔が車体から外れた状態で赤軍に鹵獲された。赤軍機械化装甲部隊司令部はマウスを本国へ移送することを決定、1号車の車体にほぼ原型を留めていた2号車の砲塔を組み合わせて走行可能なマウスを製作することとした。2号車の砲塔を回収するためには、6台の接収した18トンハーフトラックが必要であった。
こうして1号車の車体に2号車の砲塔を搭載したマウスは1946年4月末にソ連へと移送され、5月4日にはモスクワに到着し、近郊の装甲車両中央研究所(ロシア語版)クビンカ試験場に搬入されて各種の試験に供され、その後は試験場に隣接する博物館の収蔵品とされた。
尚、装甲車両中央研究所及び附属博物館は最重要軍事機密施設として外部には公開されていなかったため、ソ連の一部関係者以外がマウスの現存を知ったのはゴルバチョフ政権におけるグラスノスチ以後のことである[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/マウス_(戦車)
Ⅱ号戦車F型
性能情報
全長 | 4.81 m |
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全幅 | 2.22 m |
全高 | 1.99 m |
重量 | 8.9 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 200 km |
主砲 | 55口径20 mm機関砲(2 cm KwK 30 L/55) |
副武装 | 7.92 mm機関銃 MG34 |
装甲 | 砲塔前面15(+15) mm、側・後面15 mm上面10 mm車体前面15(+20) mm側・後面15 mm底面5 mm |
エンジン | マイバッハ HL62TR 直列6気筒液冷ガソリン 140 馬力 |
乗員 | 3 名 (車長兼砲手、操縦手、無線手兼装填手) |
運用事績
II号戦車はまずスペイン内戦で、I号戦車とともにテスト運用された。本格的な主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の生産が間に合わず、第二次世界大戦開始時のポーランド侵攻から主力として実戦投入された。初期の電撃戦ではその軽快性と機動力が大いに発揮され[1]、その戦闘能力も当時においては有効だった。
電撃戦の生みの親とも云われているハインツ・グデーリアンは後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っているが、一方では榴弾も使用できる2 cm機関砲は歩兵の最大の敵である重機関銃手を攻撃するのに最適であり、被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの戦車を主力とするよう献言したものもいた。また主砲はもともと重対戦車ライフルから発展した高射機関砲であるために初速が高く、その徹甲弾は相手が軽装甲であれば十分な威力を発揮できた。しかし、対戦車攻撃力を重視するルートヴィヒ・ベックの反対もあり、結局当初の予定通りIII号戦車を主力とする方針が貫かれた。実際にポーランド戦後、III号、IV号の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし、その後もしばらくは、数量的にはなおドイツ軍戦車部隊の主力車両であった。
また、b型以降若干強化されたとはいえ装甲はなお薄く、ポーランド戦では対戦車火器によって大きな損害を蒙り、うち少なくとも78両が修理不能の全損となった。そのため1940年5月以降、c、A~C型の車体前面、砲塔前面に15 mmまたは20 mmの増加装甲を取り付ける改修が行われた。また、フランス戦後の1940年10月には、砲塔上面の大きな角形ハッチに替えて、全周にペリスコープを備えたコマンダー・キューポラが導入され、その改修キットが配布された。
その後も、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、II号は既に非力となりながらも戦い続けた。1941年3月からは、標準型II号戦車の最終型となるF型の生産が開始された。F型はC型までと比べ、基本装甲が全体的に増厚されており、車体前端は平面の組み合わせとなり、戦闘室前面も車体幅一杯の一枚板となった。また、砲塔には最初からキューポラが装着されていた。本来はC型に引き続き生産されるべきものだったが、これら改設計に手間取ったため、生産開始までに約1年の遅れが生じることになった。この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあったが、一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのである。生産はFAMO社1社のみで行われ、1942年12月までに524輌が作られた。標準型II号戦車の生産はこれをもって終了したが、車台はその後も派生型である自走砲用に引き続き生産された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/II号戦車