T-34/76
性能情報
全長 | 6.75m |
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車体長 | 5.92m |
全幅 | 3.00 m |
全高 | 2.60m |
重量 | 30.9t |
懸架方式 | クリスティー方式 |
速度 | 55 km/h(整地) 30 km/h(不整地) |
行動距離 | 400 km |
主砲 | 41.5口径 76.2mm F-34(主砲弾:100発) |
副武装 | 7.62mm DT機関銃×2 |
装甲 | 16~70mm |
エンジン | V-2-34 V型12気筒 液冷ディーゼル |
乗員 | 5 名 |
運用事績
独ソ戦
1941年6月22日、ドイツは対ソ侵攻作戦、バルバロッサ作戦を開始した。ドイツ軍兵士らは装備の劣ったソ連軍と戦うだけだと考えていたが、1941年夏にT-34が戦場に現れた事により心理的なショックを受けた(T-34ショック)。T-34は当時就役していたドイツ軍戦車のどれよりも優れており、ドイツ軍は当初T-34を撃破するのにかなり苦労した。当時のドイツ軍の標準的な対戦車砲ではT-34の分厚い傾斜装甲には有効打を与えられなかったからである。アルフレート・ヨードルの日記でも、リガにT-34が現れたときは驚いたようである。そのため、T-34はしばしば独ソ戦におけるソ連軍反撃の象徴とされる。[7]。また、現代の歩兵戦闘車のようにT-34の車上にタンクデサントとして歩兵を乗せて移動することがあった。この例はスターリングラードなどで見られる。
1941年はT-34はドイツ軍の全ての戦車と有効に戦う事ができた。しかし新型戦車であるT-34には深刻な問題があった。初期のPomonフィルターにはほとんど防塵効果が無く、塵や砂がエンジンに入り故障させた。変速機とクラッチにも深刻な機械的トラブルが頻発した。1941年夏の戦車の損失の少なくとも半数は、ドイツ軍の攻撃によるものではなく、故障による損失であった(但し、この統計にはT-34以前の古い戦車も含まれている)[7]。修理用の器材が不足したため初期のT-34はエンジンデッキの上にスペアの変速機を積んで戦場に向かうのが珍しい事ではなかった。
1941年から1942年にかけての冬、T-34は泥や雪の中でも埋まらずに移動できる特長を生かしてドイツ軍戦車に対して再び優位に立った。T-34はドイツ軍戦車が移動できないような地形でも移動できたのである。IV号戦車は性能の劣るリーフ式サスペンションと狭い履帯を使っていたため深い泥や雪の中で沈み易かった[8]。
当時のドイツ歩兵部隊は大部分がPaK 36(37ミリ対戦車砲)を装備していたが、これはT-34には効果がなかった。バトル・オブ・フランスでは、PaK 36 は最も薄い部類の装甲以外は何も貫通できず、ただ対戦車砲の位置を敵に知らせるだけでしかなかったため、「ドア・ノッカー」という異名を取ったものだった。東部戦線を戦っていたドイツ軍兵士らはソ連軍戦車と戦うにはこの対戦車砲では力不足であると考え、より大きな牽引式の砲の火力に頼らねばならなかった。例えば、数は少ないが効果的な5.0 cm 砲PaK 38、新型でより強力な7.5 cm 砲PaK 40、88ミリ高射砲などがあるが、88ミリ高射砲は戦場に運び込むのが容易ではなかった。しかしながら、それでもT-34が大きな戦果を挙げるには至らなかった。それはソ連軍の戦車乗員の練度が低く、ソ連軍指揮官の指揮も拙く、またT-34の配置も疎らであったからだった。当時のソ連は戦車戦術の理解度、洗練度の点でドイツ軍より劣っていた。
1942年から1943年にかけて、ソ連軍は1941年の損害を挽回する事を目指し、作戦面でも進歩しつつあった。T-34の生産台数は急増したが、生産能率を上げるための改善が行われただけで、その設計はほぼ「凍結」されたままだった。ソ連の設計者らはいくつかの設計上の欠点を修正する必要性は認識していたが、その改良を行うと生産に要する時間が長くなるため、改良は実施されなかった。1943年、T-34の生産量は平均で1300輌/月に達した[9]。これはドイツの1ヶ月当たりの戦車生産量よりかなり多い。しかしながら、ソ連軍は引き続き作戦面での拙さによりドイツ軍よりもかなり多く戦車を失っていた。
圧倒的な数のT-34が戦場に現れ、重火器の必要性が増したため、ドイツ軍は砲口初速の大きい PaK 40(75ミリ対戦車砲。牽引式と自走式の両方があった)を多数配置するようになり、これらが1943年までの対戦車砲の主力となった。また、遅くとも1942年末頃から1943年中ごろに至るまで、ドイツ軍は強力なティーガー重戦車およびパンター中戦車を配備し始めた。これらの事によって、T-34の改良の必要性もまた高まる事となった。こうしてできたT-34の改良型には二つの主要な形式があった。一つは装甲を強化した1942/43年型で、燃料の容量や信頼性も向上し、砲塔も改良された。もう一つは 85 mm 戦車砲D-5(後にZiS-S-53)を採用した新しい砲塔を持つT-34-85である。T-34-85の火力はそれまでのF-34 76mm戦車砲に比べると大きく向上した。T-34に強く要望されていた攻撃力の強化はこのT-34-85において達成された事になる。
それまでの数年の戦いの中では、ソ連軍の作戦はドイツ軍の作戦に比べると拙かったが、ソ連軍も運用や戦術の技術を高めつつあり、また戦車の数において優位に立っていた事から、損害率は減少していった[10]。1944年初期から登場したT-34-85型は、ドイツ軍のIV号戦車やIII号突撃砲よりも装甲や機動性において優れていたが、パンターの砲や装甲よりは劣っていた。ソ連側の有利な点は、T-34に比べればパンターの台数は遥かに少なく稼動率が低い点であった。従って、練度の高い乗員と戦術的な条件が整えば、T-34-85によってパンターを撃破しえた。
開戦当初、T-34はソ連戦車の内のわずか数パーセントに過ぎなかったが、終戦時までにソ連の膨大な戦車生産台数の少なくとも55パーセントを占めるまでになっている([11]の図より。Zheltov 2001はより大きな数字を挙げている。)。終戦までにはT-34は旧式の戦車と置き替わり、多くの台数を配備できた。攻撃力や防御力ではパンター、ティーガーらドイツ軍新鋭戦車に劣っていたものの、数で上回る事ができたのである。
ソ連満州侵攻 (1945年8月)
詳細は「ソ連対日参戦」および「ソビエト連邦による満州侵攻」を参照
1945年8月9日未明、機甲部隊の通過は不可能な地形と日本軍側が考えていた地帯を通ってソ連軍は日本占領下の満州に侵攻した。赤軍の諸兵科連合部隊は完全な奇襲に成功し、古典的な二重包囲戦形の中で、T-34-85、IS-2、IS-3とISU-152を先鋒とする強力な長距離貫入攻撃を展開した。対する日本軍は、既に精鋭部隊を他の戦線に引き抜かれた後で兵力が減少しており、再配備の途上であった。日本軍に残されていた戦車は全て後方に留め置かれ、戦闘には使用されなかった。日本軍は陸軍飛行戦隊、工兵、通信兵からの支援もあまり得られなかった。日本軍はある程度の抵抗は示したが、数と質共に圧倒された。これを受け、昭和天皇は8月14日に降伏を伝達したが、関東軍は8月17日まで正式な停戦命令を受け取っていなかった[12]。
第二次世界大戦後
ソ連軍では後継のT-54が1950年に正式採用されるまで、主力戦車であり続けた。T-34-85型などは、第二次世界大戦後もソ連から輸出されて各地で使用された。
例えば、1950年6月の朝鮮戦争における北朝鮮軍の侵攻の先鋒は、約120輌のT-34-85を装備した第105機甲旅団であった。第一次侵攻部隊が韓国に入ってから後も更にT-34が送り込まれた[13]。
T-34はM24軽戦車、M4中戦車、M26パーシング中戦車、M46パットン中戦車と戦ったが、国連軍のセンチュリオン戦車とは、いずれも戦っていない。北朝鮮軍の第105機甲旅団は、戦争初期には韓国軍の歩兵や、アメリカ軍のスミス支隊、M24軽戦車などに対して劇的な勝利をおさめた。アメリカ軍は第二次世界大戦の時代の2.36インチバズーカを依然として使っていたが、これはT-34には無力であった[14]。しかしアメリカ軍のM26中戦車、航空機による地上攻撃、そしてアメリカ軍歩兵がアメリカから急遽空輸された3.5インチ・スーパー・バズーカを使い始めた事などにより、北朝鮮軍のT-34の進撃速度は鈍化した。
共に第二次世界大戦で連合国を代表する存在となったM4中戦車との戦いにおいては、主力となった52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)と59回の戦車戦を戦い、T-34が47輌撃破されたのに対して、M4中戦車の完全損失は10輌(他10輌が損傷したが修理復帰)であり、圧倒されている。他、M26パーシングやM46パットンなども含めた、T-34対アメリカ軍戦車の戦いのキルレシオとしては、T-34が97輌撃破されたのに対してアメリカ軍戦車の損失は34輌(うち半数は修理復帰)であり、アメリカ軍側の圧勝に終わっている[15]。
一連の戦闘で北朝鮮軍が大部分の戦車を失った一方、国連軍側には新しい装備が供給され続け、1950年8月になると形勢は国連軍に有利となった。アメリカ軍による9月15日の仁川上陸作戦によって北朝鮮の補給路が断ち切られ、北朝鮮軍の機甲兵力と歩兵には燃料・弾薬・その他の物資が補給されなくなった。その結果として北朝鮮軍は退却を余儀なくされ、多くのT-34と重火器が放棄された。北朝鮮軍が朝鮮南部から撤退したこの時までに、239輌のT-34と74輌のSU-76が失われた[14]。その後、北朝鮮軍の戦車とは稀にしか出会わなくなった[16]。
フィンランド軍は攻撃してきたソ連軍から鹵獲したものや、ドイツ軍から戦中・戦後にかけて購入したT-34を1960年まで使用していた。それらは光学系などをフィンランドや西側の装備によって改良されていた。
また多くの東欧諸国(後のワルシャワ条約機構)の陸軍でも採用され、1953年6月17日の東ドイツにおける蜂起や1956年のハンガリー動乱の鎮圧に使用された。
T-34は、中東戦争やベトナム戦争、チェコ事件、ソマリア紛争、中越戦争などでも使われ、1974年のキプロス紛争では、キプロス国家守備隊がユーゴスラビアから供給された35輌ほどのT-34-85を装備していた。それは、民主的選挙で劇的にキプロス大統領に選ばれたマカリオス3世(ギリシャ・キプロス合邦運動の中心人物と目されていた)が(ギリシャ軍事政権にとって。)想定外の現実主義的政策を採ったため、ギリシャ(及び西側諸国)との関係が急速に悪化した。孤立化したキプロスは、武器の調達を旧ユーゴスラビアなど旧東側諸国に求め、少量の装備が供与された。T-34もそうした装備の一つであった。しかし、そのマカリオスに対して、皮肉にもギリシャ軍事政権が煽動した1974年7月15日のクーデターにおいてT-34が用いられた。7月20日のトルコ軍のキプロス侵攻においても、これらのT-34が広範囲に活動したのが目撃されており、その内の主な戦いは20日のキオネリ(英語版)やキュレニア(英語版)の二つの戦いである(Drousiotis 2006)。
冷戦終結後のユーゴスラビア紛争におけるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争等の地域紛争においてもなお使われている。1995年5月、ボスニアにおいてセルビア人のT-34が国際連合保護軍のイギリス陸軍王立工兵(Royal Engineers)第21連隊の前哨を攻撃し、イギリス人兵士を負傷させた[17]。クロアチアはユーゴスラビアから25輌乃至30輌を引き継いだが、既に退役させている。コソボ紛争ではユーゴスラビア陸軍がT-34をNATO空爆に対する囮として使った。又、コソボ解放軍も若干数のT-34を使用していた。
アフガニスタンでもT-34は時々利用されている(T-34が有志連合軍(Coalition Force)に対する攻撃に用いられたかどうかは不明)。イラク軍は1990年代初期までT-34を使用していた。アンゴラやソマリアなどのいくつかのアフリカ諸国においてもT-34-85を近年でも使用している。キューバのT-34-85がアフリカで作戦行動をしているのも目撃されている。
レバノン内戦では、PLOやイスラム教左派民兵組織が主に運用し、さらには一部のキリスト教民兵組織がイスラエルから供給されたM50スーパーシャーマン等と共に使用していた。
21世紀に入っても実働するT-34-85が実戦で使われている例が存在しており、2011年のリビア内戦でも前線で活用されたとの情報が多数入っている[要出典]。
2006年、ハンガリーでのデモ活動で市民側が展示されていたT-34-85を稼働させたという情報もある。
2015年には内戦状態に陥ったイエメンにおいて、T-34-85がSU-100と共に用いられているのが目撃されている[18]。イエメンのT-34-85は、主砲弾に、戦中に使われていた徹甲弾よりも遥かに強力な、戦後開発の3UBK1翼安定成形炸薬弾を使用しており、T-55程度は余裕で貫徹可能であり、こうした新型弾薬を使えば、大戦期の戦車でも十分脅威となる。
2019年1月10日には、ラオス人民軍に配備されていた30両が退役し、ロシアに返還された[19][20]。
2020年、ロシア陸軍第4親衛戦車師団「カンテミーロフスカヤ」にてT-34-85からなるT-34戦車大隊が設立された。
2022年ロシアのウクライナ侵攻におけるリシチャンシクの戦いでも、公園でモニュメントとして飾られていたT-34-85がウクライナ軍により稼働させられたものの放棄され、ロシア軍に鹵獲されて検問所でかかしとして使用されている[21]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-34
T-34/85
性能情報
全長 | 8.15 m |
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車体長 | 6.10 m |
全幅 | 3.00 m |
全高 | 2.72 m |
重量 | 32 t |
懸架方式 | クリスティー方式 |
速度 | 50 km/h(整地) 30 km/h(不整地) |
行動距離 | 300 km |
主砲 | 54.6口径85mm戦車砲 S-53またはZiS-S-53(56発) |
副武装 | 7.62 mm DT機銃×2(1890発) |
装甲 | 砲塔前面 90 mm(曲面)側面 75 mm 傾斜 20 °後面 52 mm 傾斜 10 °車体前面 45 mm 傾斜 60 °側面 45 mm 傾斜 50 °後面 45 mm 傾斜 47 °上面 20 mm |
エンジン | 4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル 500 馬力 |
乗員 | 5 名 |
諸元はT-34-85(1944年型)のもの |
運用事績
T-34/76の運用事績を参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T-34
KV-2
性能情報
全長 | 6.95m |
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車体長 | 6.75m |
全幅 | 3.32m |
全高 | 3.24m |
重量 | 52t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 34km/h(整地) 15km/h(不整地) |
行動距離 | 180km |
主砲 | 20口径152mm榴弾砲M-10T (弾数36発) |
副武装 | 7.62mm車載機銃DT×2 (弾数3,087発) |
装甲 | 110mm |
エンジン | V-2K 12気筒液冷ディーゼル 550馬力/2,150rpm |
乗員 | 6名 |
運用事績
1941年6月の独ソ戦開戦後は、フィンランド戦を生き残った増加試作型、量産型ともに前線に投入され、フィンランド戦同様、その巨体と重装甲はドイツ兵を驚愕させた。
1941年6月23日、35(t)を装備するドイツ第6装甲師団は、リトアニアのドゥビーサ川(英語版)方面の戦いで、KV-2を保有するソ連第2戦車師団と遭遇、戦車40両と多くの火砲を撃破される大損害を被った。このため、前進していたドイツ第1装甲師団は反転して、第6装甲師団を支援しなければならなくなった。
また、ラシェイニャイ(英語版)市内の第6装甲師団とドゥビーサ川橋頭堡の歩兵部隊を分断するために送り込まれた、たった1両のKV-2は橋頭堡に向かう増援部隊のトラック12台を撃破し、街道上の分岐点に居座ってドイツ軍を食い止め続けた。これを排除すべく、5 cm PaK 38対戦車砲を装備する部隊が送り込まれたが返り討ちにあい2門が破壊され、続く8.8cm高射砲1門も設置中に砲撃を受け、破壊された。夜になって突撃工兵が爆薬攻撃を仕掛け、履帯を破壊して行動不能に追い込んだものの完全撃破には至らなかった。翌日、軽戦車が囮となっている間に設置された8.8cm高射砲が水平射撃で6発を命中させた。しかし、貫通したのは2発のみで乗員はまだ生きており、砲塔が動き始めたため、工兵により被弾孔から手榴弾が投げ込まれ、ようやく完全に沈黙した[3][注釈 1]。
なお、ドイツ軍は放棄されたKV-2を少数ながら鹵獲しており、Pz. Kpfw.KW-2 754(r)の名称で使用している。ドイツ軍が鹵獲使用した物には、砲塔天面右前部にIV号戦車の車長用キューポラを増設した独自改造車が存在した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/KV-2
IS-2
性能情報
全長 | 9.90m |
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車体長 | 6.77m |
全幅 | 3.09m |
全高 | 2.73m |
重量 | 46t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 37km/h |
行動距離 | 240km |
主砲 | 122mm戦車砲D-25T(46.3口径) |
副武装 | 12.7mm機銃DShK×1 7.62mm機銃DT×2 |
装甲 | 砲塔防楯 100~160mm前面 100mm側面 90mm車体前面上部 100~120mm前面下部 100mm側面 90mm後面 60mm |
エンジン | V-2-IS 液冷V型12気筒ディーゼル 520馬力/2,000rpm |
乗員 | 4名 |
諸元は 後期型 のもの |
運用事績
赤軍はT-34中戦車やKV-1重戦車を大量生産しドイツ軍に対抗したが、ドイツ軍がティーガーIやパンターなどを投入するようになると、従来のソ連戦車を凌ぐ重戦車が求められるようになった。そこで、85mm砲を搭載するIS-1(旧名称:KV-85)が開発されたが、85mm砲ではティーガーの8.8cm砲の射程外からその装甲を撃ち抜くのは不可能であるという攻撃力不足が判明したことに加え、ほぼ同時期にT-34の新型砲塔にも85mm砲の搭載が成功しT-34-85として採用されたため、生産開始わずか15日で火力の更なる増強が決定され、新たに122mm カノン砲を改造し搭載するように設計されたのがIS-2(旧名称:IS-122)である。122mm カノン砲はもともと榴弾砲のため榴弾を射撃すると威力が凄まじい。
IS-2は数々の欠点を抱えていたが、122mm砲弾の威力は凄まじく、榴弾での陣地に対する攻撃力はもちろん、弾頭重量25kgの徹甲弾は、ドイツ軍のパンターなどを十分に撃破しうる性能を秘めていた。例えば鹵獲したパンターに対する射撃実験では、クルスク戦においてT-34-76やKV-1の76.2mm戦車砲や45mm対戦車砲の攻撃に対し、一発の貫通も許さなかった車体前面80mm傾斜装甲を距離600-700mで貫通、1500mでは貫通こそしなかったものの傷をつけることができた。パンターの75mm対戦車砲も距離550-650mでIS-2の車体前面装甲を貫通できたため、正面からであればIS-2はパンターとは互角に戦えた。そのため大量に生産され、対独戦末期の重要な局面に投入され活躍した。もっとも、本車は独立親衛重戦車連隊に編成されて拠点突破に用いられることが多く、対戦車戦闘よりも対歩兵戦闘に活躍している。事実、本車の損害の6割は、歩兵の携帯兵器であるパンツァーファウストによるものである。
合計約3500輌が生産された本車は、戦後は共産圏の各国へ供与され、エンジンの換装や、側面の装甲を雑具箱を兼ねた二重構造にしたIS-2Mに改修され、大戦中から引き続きチェコとポーランド、戦後に中国・キューバ・北朝鮮に送られた。第一次インドシナ戦争時、フランス軍は中国からベトナムにIS-2が提供されたのではないかと警戒し、ドイツから鹵獲して運用していたパンターを1両派遣したが、実際にはIS-2の配備は無かった。また、IS-3が贈られた中東にもIS-2は送られていない。 IS-2の欠点を改良し、全く異なる車体を持つ発展型としてIS-3、直接の拡大発展型であるIS-4が開発された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IS-2