ガールズ&パンツァーの戦車リアル性能と運用事績、2023最新情報ーアンツィオ高校

CV33

性能情報

全長3.17 m
車体長3.17 m
全幅1.42 m
全高1.30 m
重量3.15 t
懸架方式リーフスプリング、ボギー式
速度42 km/h整地
15 km/h(不整地
行動距離120 km
主砲8mm重機関銃×2
装甲15-5 mm
エンジンフィアットSPA CV3-005
水冷直列4気筒ガソリン
43hp/2,400rpm
乗員2 名

運用事績

イギリス製のカーデン・ロイド豆戦車の独自発展型で、当初C.V.33(Carro Veloce 33、カルロ・ヴェローチェ=快速戦車 33年型)として採用され、その後改良型のC.V.35C.V.38などが作られた。

1938年、イタリア陸軍の車両分類名称変更により、5トン未満は「軽戦車」に分類され、それぞれL3/33L3/35L3/38と改称されることになった。

L3/C.V.33系列は、1935年のエチオピア侵攻に投入され、さらには1936年スペイン内乱でも使用された。

本来、偵察・警備用の軽車両として開発されたものだけに、この時点ですでに、その弱武装と軽装甲は第一線で使用するにふさわしくないことが明らかとなった。無砲塔のため機銃の左右の射界も限られた。とはいえ、第二次世界大戦に突入したとき、イタリア軍が装備する「戦車」は、約100輌のM11/39を除いてはL3のみで、その後も、イタリアが参加したほぼすべての戦場で使われた。ただし、既に1940年末時点で、最前線で使われるL3は少数であって、その活躍の場は少なく、連絡任務や後方警備やパルチザン対策など、限られた用途(豆戦車の本来の用途に戻ったともいえる)で、終戦まで運用され続けた。

C.V.33は、1939年12月の崑崙関の戦いでも中国国民党軍によって使われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/L3

セモヴェンテ

性能情報

種類自走砲
原開発国 イタリア王国
運用史
配備期間1942年–1945年
配備先イタリア陸軍
関連戦争・紛争第二次世界大戦
開発史
開発期間1941年
製造数342両
派生型M13/40またはM14/41のシャーシ
諸元
重量14.4 tonnes (31,746 lbs)
全長4.92 m (16 ft 2 inches)
全幅2.2 m (7 ft 3 inches)
全高1.85 m (6 ft 1 inch)
要員数3 (車長兼装填手, 操縦手, 砲手兼無線手)
装甲前面:50mm 側背面:25mm 天板:5〜28mm 防盾:50mm
主兵装75 mm Da 75/18
砲弾44発搭載
副兵装8 mm Breda Model 38 又は 6.5 mm Breda Model 30
エンジンフィアットSPA ディーゼル
懸架・駆動半楕円リーフスプリングボギー
行動距離230 km (143 mi)
速度32 km/h (20 mph)

運用事績

本車は特性をよく把握されていなかったが、投入された車輛はその任務をよく果たした。本車は三号突撃砲と技術的に似かよっていたが、全く異なる任務があった。本車は純粋な突撃砲としてだけでなく、師団砲兵としても作戦に従事した。1個の砲列は4輌のセモヴェンテ da 75/18と、1両の指揮車輛から構成された。この砲列2個で1個の砲兵部隊を作る。全ての機甲師団を支援するために、2個砲兵部隊が有機的な部隊組織として構成された。総計は18輌のセモヴェンテ da 75/18(予備2輌を含む)および9輌の指揮車輛である。指揮車輛は主砲の代わりに増設された無線装備とブレダ M31 13.2 mm重機関銃が特徴であった。当初の予定配備数は60輌であり、3個機甲師団として十分な数だった。

  • [1] – M13/40をベースとした、セモヴェンテ部隊用指揮車両(Carro Commando Semoventi)。セモヴェンティ(Semoventi)はセモヴェンテの複数形なので、セモヴェンテ部隊。砲塔を撤去し、車体上面を2つの乗降扉を備えた8 ㎜厚の装甲板に置き換え。無線機(マグネティ・マレリ社のRF1CAおよびRF2CA無線機)と予備バッテリーを増設。機銃は当初はそのままだったが、後により強力な、ブレダ M31 13.2 mm重機関銃に変更された。

セモヴェンテ da 75/18は、北アフリカの作戦からシシリーに連合国が侵攻するまで広く投入された。共に投入されたのは追加の火力で支援するM13/40戦車の部隊であった。北アフリカ戦線では、これらの車輛は、イギリス軍の用いたアメリカ製のM3グラントM4シャーマンに対して完全に効果的だった。

当初、これらのイタリア軍の車輛は砲兵師団に配備された。しかし、これらの車輛は完全に囲われた戦闘室を備えており、最前線の行動に投入するには十分によく防御されていた。自走砲は間接支援射撃を実施できた。また必要に応じ、陣地攻撃の突撃砲と、対戦車戦闘の駆逐戦車の役割を果たした。75mm主砲は榴弾と徹甲弾および対戦車榴弾を使用でき、これを備えた車両は、M4シャーマンのような連合国の戦車を破壊するには十分強力だった。実際、1942~43年の間になされたイタリア軍機甲部隊の成功の多くは、これらの車輛のおかげだった。

1942年により多数の車輛が製造された。生産数は132輌または146輌であり、全てがM41の車体を利用して作られた。これらの車輛は、設計思想に基づく砲塔の欠如と低姿勢によって防御戦闘に適し、主にそのような戦闘に投入された。

セモヴェンテ da 75/18は成功作であり、イタリア軍の装甲戦闘車輛の低い性能にもかかわらず、作戦に応えてよく実力を発揮した。本車はイタリア軍の砲兵において使用されたものとしては非常に革新的な装備だった。これは本車が師団単位で使用される最初の自走砲であったことによる。しかしこの他のイタリア陸軍の砲兵部隊は深刻に機動力が欠如しており、これらの少数の自走砲は(1942年まで戦闘に参加しなかった)全体的な不足状況を変えることはできなかった。

75mm対戦車榴弾の持つ性能は重要だった。なぜならばイタリア軍の装甲戦闘車両に搭載された兵装では、チャーチル戦車を例外として、これが敵軍の重量級の車輛を破壊できる唯一の兵器だったからである。この砲弾なしでは、徹甲弾の弾速の遅さと射程の短さから、セモヴェンテ da 75/18は効果的な兵器ではなくなった。

本車の搭載する弾薬は、砲の射程や威力という点において、自走砲の任務にかろうじて間に合うものだった。背の高く天井の開放された後の自走砲、例えばM7プリーストセクストンヴェスペのような車輛は優れた弾薬の搭載量と射程を持っていた。75/18榴弾砲の発射速度は非常に遅かったが、これは本車の乗員が3名に限定されていたことによる。同軸機銃の欠如もまた、本物の戦闘車輛との大きな違いを生んだ。1943年、99発の砲弾を輸送する装軌型の補給車が、これらの自走砲へ素早く弾薬を補給するために利用された。生産量はイタリアの標準としても少なくはないが、それにもかかわらず自走砲に対する役割としては不十分だった。

1942年初頭以来、これらの車輛はエル・アラメインからチュニジアへの後退戦までの重要な砂漠の戦闘を全て戦い、主に火力支援と対戦車戦闘時の直接射撃に従事した。

より長砲身で高威力の砲の必要性から、セモヴェンテ da 75/34セモヴェンテ da 75/46およびセモヴェンテ da 105/25自走砲の開発へとつながった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/セモヴェンテ_da_75/18

P40

性能情報

種類重戦車
原開発国 イタリア王国
運用史
配備先 ドイツ国
 イタリア王国
イタリア社会共和国
関連戦争・紛争第二次世界大戦
開発史
開発期間1940年
製造業者フィアット・アンサルド社
製造期間1943年 – 1944年
製造数103輌
諸元
重量26 t
全長5.80 m
全幅2.80 m
全高2.5 m
要員数4名 (車長兼砲手、装填手、操縦手、無線手)
装甲砲塔: 前面 50mm、側面および後面 40mm、防盾 47+47mm、上面 20mm
車体: 前面 50mm(75mm)、側面および後面 40~45mm、車体上面 14~45mm、車体底面 14mm
主兵装75 mm L/34
副兵装ブレダM38車載機関銃 1挺または2挺
エンジン液冷V型8気筒ガソリン(試作型)
フィアットSPA 342型 液冷V型12気筒ディーゼル(生産型)
出力重量比11.53 hp/t
懸架・駆動板バネ式懸架
行動距離280 km
速度整地40km/h、不整地25km/h(V8ガソリン)

運用事績

1940年6月にイタリアは第二次世界大戦に参戦したものの、当時、イタリア陸軍は3個機甲師団(戦車師団)を有する他に、装甲車を装備する「快速師団」や「騎兵連隊」と呼ばれる部隊も複数有していたが、そのほとんどは、二人乗りで重量わずか3t強のL3快速戦車、いわゆる「豆戦車」が戦車総数の75%を占めていた。

P40の設計はかなり斬新なものであった。しかし本車は現代的な装備のいくつかを欠いていた。例えば、溶接構造、新型のサスペンション、車長用のキューポラである。本車の装甲はイタリア軍の標準的な仕様によって防御力を定められたものであった。これは乗員と内部構造を、イギリス軍の装備するQF 2ポンド砲(口径40mm)のような初期の対戦車砲から防護し得たが、1943年に登場した対戦車用兵器、例えば、通常射程で100mm以上の装甲を貫通したイギリス軍のQF 6ポンド砲(口径57mm)、またはQF 17ポンド砲(口径76.2mm)、には対抗できなかった。

これらの欠点にもかかわらず、イタリアが戦争中に実戦化したものとしては、P40は連合国およびドイツ軍の中戦車に相当する唯一のイタリア軍の戦車であった。25tから30tの車重を持つこの戦車は、出現の2、3年前においては「重戦車」の範疇に分類された。フィアット M13/40 のような戦車設計は10tから15tの車重を持ち、「中戦車」と考えられた。P40は重戦車と呼称されたが、国際標準においてこれは中戦車であった。P40は、カーデン・ロイド豆戦車に端を発するCV29やL3/35のようなタンケッテにはじまり、それからこれら従来のタンケッテが持つ、多くの特徴を共有しつつも、より大型化されたM11/39中戦車のようなモデルへと進化を遂げて行った、イタリアの戦車設計の最終地点であった。

合国軍による、エンジン工場を含むイタリア産業への爆撃は、イタリアの戦車生産をほぼ停止させた。イタリアはドイツに戦車用エンジンの売却を要請し、1943年初頭、IV号戦車のライセンス生産用とP40用に、マイバッハ HL-120 TRM 液冷V型12気筒ガソリンエンジン 296馬力 (イタリアでの名称:フィアットSPA 343型)のライセンスがイタリアに供与された。また、フィアットSPAは、マイバッハ HL-230 P30 液冷V型12気筒ガソリンエンジン 700馬力(イタリアでの名称:フィアットSPA 344型)を無断コピーした。

1,200輌のP40が発注されたが(イタリア軍内には、国産戦車派とドイツ戦車のライセンス生産派がおり、イタリア軍最高司令部は、P40の代わりにドイツのIV号戦車のライセンス生産を望んでいたため、P40の実際の発注が遅れたようである)、うちごく少数、資料によっては1輌から5輌とされる試作車輛が1943年9月のイタリア休戦前に完成した。休戦の後、その場でこれらの車輛はドイツ国防軍に接収された。約100輌のP40が戦争終結までアンサルド社によって生産されたものの、40両がエンジンの不足のため、完成に至らなかった。60両が「PanzerKampfwagen P40 737(i)」の呼称でドイツ軍に徴用され、アンツィオで戦闘に投入された。またエンジンのない車体40両が、固定砲台としてトーチカなどに使用された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/P40_(戦車)

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