シャーマン/75
性能情報
車体長 | 5.84 m (19.2 ft) |
---|---|
全幅 | 2.62 m (8 ft 7 in) |
全高 | 2.67 m (8 ft 9 in) |
重量 | 30.3 t |
懸架方式 | VVSS(垂直渦巻きスプリングサスペンション)M4A2E8などのT84履帯を使用する車体はHVSS(垂直ボリュートスプリングサスペンション) |
速度 | 38.6 km/h(整地) 19.3 km/h(不整地) |
行動距離 | 193 km |
主砲 | 37.5口径75mm戦車砲M3(90発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(600発) 7.62mm機関銃M1919×2(6,250発) |
装甲 | 砲塔防盾88.9 mm前面64–76 mm側面50 mm後面64 mm車体前面51 mm側面38–45 mm後面38.1 mm |
エンジン | コンチネンタル R975 C4 4ストローク星型 9気筒空冷ガソリン 400 HP |
乗員 | 5 名 |
総生産数 約50,000輌 |
運用事績
北アフリカ戦線・ヨーロッパ戦線
第二次世界大戦の連合国の主力戦車で、アメリカの高い工業力で大量生産された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適したエンジン形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。
M4が最初に戦闘に投入されたのは、北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦いであった。アメリカ軍の機甲師団を投入しようという計画もあったが、補給の問題もあってレンドリースという形式でイギリス軍に送られたものであった[12]。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、50mm 60口径砲搭載のIII号戦車が主力のドイツアフリカ軍団にはM4は難敵であり[13]、ドイツ軍戦車は一方的に撃破された。特にM4が猛威を振るったのが75mmの榴弾による88mm砲への攻撃であり、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがドイツ軍の致命的な痛手となり、イギリス軍の勝利に大きく貢献した[14]。
しかし、その後のカセリーヌ峠の戦いでティーガーIと戦ったアメリカ軍のM4は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦し、アメリカ軍はM3中戦車とM3軽戦車も含めて183輌の戦車を失っている[15]。アメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連からV号戦車パンターの情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2㎜砲を搭載する以上の対策をとることはなかった[16]。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っている[17]。
アメリカ軍の分析とは異なり、ノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった[8]。東部戦線で経験を積んだ一部のドイツの戦車エースたちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくにエルンスト・バルクマン親衛隊軍曹はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日にサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった[18][19]。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが[20]、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある[21]。
限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している[22]。アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している[23]。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した[24]。
アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった[25]。また、M4は信頼性・生産性など工業製品としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり[26]、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて[27]、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている[28]。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している[29]。
バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった[30]。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある[31]。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった[32]。
攻守 交戦数 交戦したM4の数 撃破されたM4の数 交戦したパンターの数 撃破したパンターの数 攻撃 9回 68輌 10輌 47輌 13輌 防御 20回 115輌 6輌 98輌 59輌 合計 29回 183輌 16輌 145輌 72輌 29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにもかかわらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない[33]。
アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している[24]。またラファイエット・G・プール准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている[34]。 また、イギリス、カナダ、オーストラリアなどイギリス連邦加盟国のほか、ソビエト連邦に4,000輌以上、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされた。カナダ軍ではシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍戦車エース(英語版)の1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、ドイツの戦車エース・ミハエル・ヴィットマンの乗るティーガーIも含まれていたとも言われている[35]。
「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断はM26パーシングの配備を遅らせ[注 7]、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
太平洋戦線
北アフリカおよびヨーロッパに加えて太平洋戦争にも投入された。戦車戦力が弱い日本軍にとってM4は非常な難敵で、サイパンの戦い、グアムの戦い、ペリリューの戦いなどでM4と日本軍の九七式中戦車や九五式軽戦車との戦車戦が戦われたが、日本軍戦車の九七式五糎七戦車砲や九八式三十七粍戦車砲はM4に命中してもまるでボールのように跳ね返されたということで、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多かった[36]。日本軍の戦車兵はそのようなM4を「動く要塞」と称して恐れた[37]。それでも、戦車第2師団が戦ったルソン島の戦いにおいては、重見支隊(支隊長:重見伊三雄少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)がリンガエン湾に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われた。九七式中戦車改に搭載された一式四十七粍戦車砲は、500ヤード(約457.2m)で67㎜の装甲、1,000ヤード(約914.4m)で55㎜の装甲を貫通したので、M4の側面や後面の装甲であれば、かなりの遠距離からでも貫通可能であり、戦車戦で撃破されるM4も少なくはなく[38]、アメリカ軍は九七式中戦車新砲塔型を「もっとも効果的な日本軍戦車」と評して警戒した[39]。戦車戦での不利を痛感した日本軍は、その後の硫黄島の戦いや沖縄戦では、戦車の車体を地面に埋めて、即席の対戦車トーチカとして使用するようになった[40]。
そこで日本軍のM4対策は、待ち伏せによる速射砲と地雷と歩兵による肉弾攻撃となっていった。速射砲のなかでも一式機動四十七粍速射砲や九四式三十七粍速射砲がM4の側面装甲を至近距離から貫徹でき撃破したこともあった。沖縄戦ではM4を主力とするアメリカ陸軍の戦車隊が221輌撃破されたが[41]、そのうち111輌が速射砲や野戦重砲などの砲撃による損害であった。また、海兵隊の51輌のM4の損失を含めると合計272輌が撃破されたことになり[42]、これは、沖縄に投入されたアメリカ軍戦車のうち57%にも上っている[43]。また沖縄戦においては、日本軍は段ボール大の木箱に爆薬を詰め込んだ急造爆雷を多数準備した。日本兵はこの急造爆雷をアメリカ軍戦車のキャタピラに向けて投げつけるか、もしくは爆雷をもったまま体当たり攻撃をかけた[44]。この特攻戦術は効果があり、激戦となった嘉数の戦いでは、この歩兵による体当たり攻撃で1日に6輌のM4が撃破され、アメリカ陸軍の公式報告書でも「特に爆薬箱を持った日本軍兵士は、(アメリカ軍)戦車にとって大脅威だった。」と警戒していた[45]。
アメリカ軍戦車兵は、急造爆雷や磁力吸着式の九九式破甲爆雷で対戦車特攻を行ってくる日本兵を警戒し、戦車を攻撃しようとする日本兵を見つけると、優先して車載機銃で射撃したが、日本兵が抱えている爆雷に銃弾が命中すると爆発し、周囲の日本兵ごと吹き飛ばしてしまうこともあった。また、戦車内に多数の手榴弾を持ちこみ、対戦車特攻の日本兵が潜んでいそうな塹壕を見つけると、戦車のハッチを開けて塹壕に手榴弾を投げ込み、特攻するため潜んでいた日本兵を掃討している[46]。ほかにも、ハッチに爆薬を密着させないように多数のスパイクや金網を周囲に溶接、そのほか車体側面に木の板を装着、またはこれを型枠のように取り付け、車体との間にコンクリートを流し込み磁力吸着式の九九式破甲爆雷対策とした例も見られる。
第二次世界大戦後
M4は朝鮮戦争でも活躍した。主に投入されたのは52口径76.2mm戦車砲M1A2を搭載したM4A3E8(イージーエイト)となったが、M24軽戦車の138輌、M26パーシングの309輌、M46パットンの200輌に対してM4A3E8は679輌も投入されており、依然として数的には主力戦車であった。朝鮮戦争ではアメリカ陸軍と海兵隊の戦車部隊は北朝鮮軍のT-34-85(一部SU-76)と合計119回の戦車戦を行ったが、そのうちの59回(50%)はM4A3E8によるものであった。アメリカ軍は合計で97輌のT-34-85を確実に撃破し、さらに18輌の不確実な撃破を記録したのに対して、失った戦車は合計34輌に過ぎず、そのうちM4A3E8は20輌であり、さらに完全に撃破されたのはその半分以下であった。アメリカ軍が確実に撃破した97輌のT-34-85のうち、M4A3E8が撃破したのは47輌とされ、依然として十分に戦力になることを証明した[47]。
その後の中東戦争などで使用され、特にイスラエル国防軍はM4の中古・スクラップを大量に収集再生し、初期の地上戦力の中核として活用、その後独自の改良により「最強のシャーマン」と呼ばれるM50/M51スーパーシャーマンを生み出している。第一線を退いた後も装甲回収車などの支援車両に改造され、最近まで各国で使用されていた。
M4A3E8型はMSA協定により日本の陸上自衛隊にも供与されて[48]1970年代半ばまで使用され、同年代末に61式戦車と交代する形で全車が退役した。21世紀を迎えてもなお少数が運用されていたが、2018年にパラグアイで運用されていたM4A3の最後の3輌が退役し、これをもって正規軍で使用されていたM4は全車輌が退役した。
https://ja.wikipedia.org/M4中戦車
シャーマン/76
性能情報
車体長 | 5.84 m (19.2 ft) |
---|---|
全幅 | 2.62 m (8 ft 7 in) |
全高 | 2.67 m (8 ft 9 in) |
重量 | 30.3 t |
懸架方式 | VVSS(垂直渦巻きスプリングサスペンション)M4A2E8などのT84履帯を使用する車体はHVSS(垂直ボリュートスプリングサスペンション) |
速度 | 38.6 km/h(整地) 19.3 km/h(不整地) |
行動距離 | 161km |
主砲 | 52口径76.2mm戦車砲M1(71発) |
副武装 | 12.7mm重機関銃M2×1(600発) 7.62mm機関銃M1919×2(6,250発) |
装甲 | 砲塔防盾88.9 mm前面64–76 mm側面50 mm後面64 mm車体前面51 mm側面38–45 mm後面38.1 mm |
エンジン | コンチネンタル R975 C4 4ストローク星型 9気筒空冷ガソリン 400 HP |
乗員 | 5 名 |
運用事績
シャーマン/75の運用事績を参照してください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/M4中戦車
ファイアフライ
性能情報
全長 | 7.42 m |
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車体長 | 5.89 m |
全幅 | 2.75 m |
全高 | 2.62 m |
重量 | 33 t |
懸架方式 | 垂直渦巻きスプリング型ボギー式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 161 km |
主砲 | 58.3口径17ポンド対戦車砲(77発) |
副武装 | 12.7mmM2機関銃×1 7.62mmM1919A4機関銃×1(同軸) |
装甲 | 砲塔前面76.2mm側・後面50.8mm無線用装甲箱側面50.8mm後面63.5mm上・底面25.4mm車体前面50.8mm側・後面38.1mm上・底面19.05〜25.4mm |
エンジン | クライスラー・マルチバンク 直列6気筒ガソリン 425 馬力 |
乗員 | 4 名 (車長、砲手、装填手、操縦手) |
運用事績
ファイアフライはシャーマンを装備する部隊に1個小隊(シャーマン4輌で編成)か1個中隊に1~2輌の割合で配備され、主にノルマンディー上陸作戦以降の西部戦線に配備されたが、後にはイタリア戦線にも投入された。他のシャーマンに対する配備比率は、生産数の増えた後期にはより高くなっている。17ポンド砲から放たれるAPDS弾の威力は脅威とみなされ、ドイツ軍ではファイアフライを最優先で撃破するように通達が出された。特徴的な長砲身により容易に識別され狙われたにもかかわらず、装甲防御力は従来型のシャーマンと比べて一切強化されておらず、さらに当時のAPDS弾は遠距離での命中精度が極端に悪く、排煙の量が多いので着弾を見ての修正が難しいなど遠距離戦には不向きであり、相手戦車には近距離戦を挑まなければならなかった。このため待ち伏せ攻撃や出会い頭の遭遇戦による損失を防ぐべく、75mm砲搭載型のシャーマンが先行し、重装甲の敵車両を発見ないし遭遇次第、待機していたファイアフライが前に出てこれと交戦する(相手が対戦車砲や歩兵の場合は、従来型シャーマンが榴弾で応戦する)という、駆逐戦車的な運用が行われた[注 8]。更に砲身を短く見せるため、先端から1.6mまでの部分の下半分を明るく塗装したカウンターシェイド迷彩や、砲身の途中にダミーのマズルブレーキを付けるなどの偽装を行った。また他の戦車同様に、予備履帯を補助装甲として貼り付けることも多かった。
第二次世界大戦終結後、イギリス陸軍は大戦末期に生産が開始されたコメット巡航戦車や量産化が終戦に間に合わなかったセンチュリオンのように大戦における戦訓を取り入れて火力、装甲防御力、機動力のバランスを高い水準で保持するように設計された新型戦車の量産と配備を始めたため、ファイアフライは他の型のシャーマン同様にイギリス軍から退役を始め、ベルギーやオランダ、イタリアなどのヨーロッパ諸国の軍備再建援助のために供与された。
その後、1950年代~1970年代頃に、レバノン国内での内戦で、再び実戦で使用された(当時のLIFE誌に写真が掲載されている)。これらはM4A4車体のファイアフライVCであるが、エンジンの整備性が悪かったとみられ、1960年代にはエンジンをM4A2用のディーゼルエンジンに換装し、車体上部のリアパネルに排気管を増設、更にディファレンシャルカバーを鋳造式後期型(シャープノーズ)に換装した状態に改造されている車両も確認されている。これらの車両の一部は1970年代に車体下部リアパネルのアクセスハッチ部分を後方に延長し、M4A2用のディーゼルエンジンからフランス製のPoyaud 520ディーゼルエンジンに換装したものもあった[1]。これらの改造ファイアフライはレバノン国軍だけでなく、ナセル主義(英語版)を掲げるアラブ系社会主義武装勢力アル・ムラビトゥーン(英語版)や、キリスト教マロン派のファランジスト民兵の部隊でも使用された。
アルゼンチン軍は1940年代後半に欧米で余剰化したファイアフライVC/ICを購入して自軍に配備していた。これらは1960年代には陳腐化していたが、1970年代初頭にチリとの間で緊張が高まった際、開発中のTAM中戦車の十分な部隊配備が間に合わないと判断したアルゼンチン軍は、保有していた約120両のファイアフライの主砲をフランス製の105mm戦車砲 CN-105-57 のライセンス生産品に換装し、エンジンをフランス製のPoyaud 520ディーゼルエンジンに変更するなどした独自改良型を開発し、「シャーマン・レポテンシアド」(Sherman Repotenciado) の名称で配備・運用した[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/シャーマン_ファイアフライ