ガールズ&パンツァーの戦車リアル性能と運用事績、2023最新情報ーベルウォール学園

ティーガーⅠ(鐘壁)

性能情報

全長8.45 m[1]
車体長6.316 m[1]
全幅3.705 m[1]
全高3 m[1]
重量57 t(戦闘重量)[1]
懸架方式トーションバー方式[1]
速度40 km/h[1]整地
20 – 25 km/h[1]不整地
行動距離整地100 km、不整地60 km[2]
主砲56口径8.8 cm KwK 36 L/56(92発)[1]
副武装7.92mm機関銃MG34×2[1]
装甲前面 100 mm側面および後面 60~80 mm上面および底面 25 mm[1]
エンジンマイバッハ HL230 P45
水冷4ストロークV型12気筒ガソリン[1]
700 PS (700仏馬力,690 hp ,515 kW)
乗員5 名

運用事績

ティーガーIはもともと陣地突破のための攻撃用兵器として設計されたが、実戦投入されたときには軍事情勢は劇的に変化しており、主に敵戦車隊の突破を阻止する「火消し役」としての機動防御戦闘に多用された。

ティーガーIは、主要な敵戦車であるT-34M4中戦車チャーチル歩兵戦車を1,600メートル以上の遠方から撃破できた。対照的に、76.2mm砲を装備したT-34はティーガーIの前面装甲を0距離でも貫徹できなかった。側面装甲はBR-350P APCR弾を使用すればおよそ500メートル以内で貫けた。T-34-85中戦車の85mm砲はティーガーIの正面装甲を500メートルで射貫できた。IS-2の122mm砲は、ティーガーをあらゆる方向から1,000メートルで撃破することができた。

M4シャーマンの75mm砲はティーガーIの正面装甲を接射でも貫けず、側面装甲も300メートル以内でないと貫けなかった。アメリカ軍の76mm砲は、一般的なAPCBC弾を使用した場合、いかなる距離でもティーガーIの前面装甲を貫けなかったが、供給量の少なかったHVAP弾を使用すれば1,000メートルで前面装甲を貫けた。シャーマン ファイアフライに使用されるイギリス製17ポンド砲は、APDS弾を使用した場合、1,500メートル以上で前面装甲を貫けた。

ただし、熟練した搭乗員はティーガーIの装甲を増加させた。敵戦車に対して車体を斜に構えることにより、傾斜装甲と同じはたらきをつけたのである。正面装甲を敵に対して45度傾けた場合、敵弾が貫通しなくてはならない装甲は換算すると141mmになった。さらにこれに減衰効果が加わり、貫通は難しくなった。

通常、徹甲弾はその存速に貫徹能力を持つ。したがって戦闘距離が短くなればより厚い装甲を貫くことができる(第二次世界大戦ではほとんど使用されなかったHEAT弾を除く)。ティーガーIの主砲の大きな貫通威力は、敵戦車を相手が反撃できない遠距離から撃破できることを意味する。ロシアなどの平地の多い開けた地形ではこれは大きな戦術的優位だった。敵戦車はティーガーIを撃破するために側面からの攻撃を強いられた。

しかし一方でオードナンス QF 17ポンド砲ZiS-2 57mm対戦車砲のような対戦車砲はティーガーの正面装甲を貫通するに十分な威力をもっており、よく準備された対戦車陣地を正面装甲に頼って突破することは不可能であった。

ティーガーIは1942年8月29日に初めてレニングラード近郊のムガにおける戦闘で使用された。ヒトラーの圧力で計画より数ヶ月も早く使用されたため、初期型の多くは機械的な問題を抱えたままであることが判明した。1942年9月23日の初陣で、投入されたティーガーIの4両は全てが湿地にはまり込み、ソ連のトーチカに据えられた対戦車砲により撃破された。うち3両は回収に成功したものの、1両は回収不能となった。これは爆破処分されたが鹵獲され、ソ連に同戦車を研究し、対抗手段を準備する機会を与えた[25]

北アフリカ戦線での最初の戦闘では、ティーガーIは開けた地形で連合国戦車を圧倒できた。しかし機械的欠陥により、同時に投入できたティーガーIの台数はごく少なかった。レニングラードでの経験をなぞるように、少なくとも1両のティーガーIはイギリス軍の6ポンド対戦車砲により撃破された。

ティーガーIの過大な重量から渡れる橋は限られており、地下室のある建物跡を横切ることは危険だった。もう一つの弱点は、油圧旋回する砲塔の回転速度が遅いことだった。砲塔は手動で動かすこともできたが、照準の微調整に用いられる程度であった。

ティーガーIの最高路上速度は38km/h、好敵手のIS-2の37km/hと同程度で、共にほとんどの中戦車よりかなり低速だった。ただし操縦性はティーガーの方が容易で優れていることは、両軍の報告書で明らかになっている。ティーガーIの初期型の最高速度は45km/hほど出たが、1943年秋にエンジンが改造された際に38km/hに落とされた。ティーガーIはまた常に信頼性の不足に悩まされた。ティーガーIの部隊は故障により定数不足のまま戦闘に参加することが多く、部隊での路上行軍ではほとんど常に故障によって脱落する車両が出た。また燃費が悪く、航続距離も短かった。しかし、履帯幅の広さが幸いし、重戦車であるにもかかわらず、ソ連のT-34を例外として大半の戦車より面積当たりの接地圧が低かった。

防御戦闘では低機動力はあまり問題にならず、ティーガーIの装甲と火力は全ての敵にとって恐怖の的だった。遭遇確率の高いパンターの方がより大きな脅威だったが、ティーガーIの存在が連合軍兵士に与えた心理的影響は大きく、「タイガー恐怖症(タイガー・フォビア)」を引き起こした。ティーガーとの遭遇は極めて稀であった。連合軍兵士はティーガーIを見かけると立ち向かうよりも逃げ出したが、シュルツェンが装着されたIV号戦車のようにティーガーに似ているだけの戦車に対しても同様のことが起こった。ソ連のT-34もティーガーIを恐れた。それはまるで以前ドイツのIII号戦車がソ連の重戦車を恐れたのと同じであった。連合軍側で受け入れられた戦術は、一団となってティーガーに当たることであった。1両がティーガーの注意を引き付けている間に、他が側面や背面を狙う。ティーガーIに搭載されている弾薬や燃料は、スポンソンに格納されているため、側面を貫通すれば撃破できることが多かった。しかしこれはリスクのある戦術であり、連合軍側は複数の戦車を失うこともあった。ティーガーの部隊を撃滅するには実に巧妙な戦術が必要だった。

ティーガーIは軍直轄の独立重戦車大隊に配備されることが多かった。これら大隊は突破作戦でも、さらに反撃戦においても激戦地に投入された。陸軍の精鋭である大ドイツ師団や武装SS師団の内でも番号の若い精鋭師団は、ティーガーIをある程度装備していた。

クルスクの戦いにおいて、1943年7月7日、SS第1戦車連隊第13中隊第2小隊のフランツ・シュタウデッガー軍曹が指揮する1両のティーガーIは、テテレーヴィノ付近でソ連軍のT-34約50両との遭遇戦闘において約22両を撃破した。シュタウデッガーは弾薬を使い果たし、敵の残車両は退却した。この戦果でシュタウデッガーは7月10日に騎士鉄十字章を受章した。

1944年8月8日、SS第102重戦車大隊第1中隊のヴィリー・フェイ曹長が指揮するティーガーIは、イギリス軍第11機甲師団と遭遇した。彼はシャーマン戦車14両、装甲車12両、対戦車砲1門を撃破し、弾薬が尽きた。フェイ曹長は別のティーガーIから主砲弾を調達し、同日中にもう1両を撃破して計15両のシャーマンを撃破した。同戦車大隊はノルマンディーの戦いで保有するティーガーI全車を失ったが、227両の連合軍戦車を6週間の内に撃破した。なお同戦車大隊最後の稼動ティーガーIは前述のフェイ曹長が指揮し、8月28日ルーアンで渡河に失敗しセーヌ川に沈んだ。

ミハエル・ヴィットマンはティーガーIの多くのエースの中でも最も有名な戦車長であった。彼は様々な車両を乗り継いで戦い続け、最後にティーガーIに搭乗した。ヴィットマンは一日で戦車数両を含む20台以上の敵車両を破壊したヴィレル・ボカージュの戦いで、柏葉・剣付騎士鉄十字章を受章したが、1944年8月8日に戦死した。

10名以上の戦車長が100両以上の敵戦車を破壊した。ヨハネス・ベルターは139両以上[26]オットー・カリウスは150両以上[26]クルト・クニスペルは168両以上[26]ミハエル・ヴィットマンは138両以上[26]ヴァルター・シュロイフは161両以上[26]アルベルト・ケルシャーは100両以上を撃破した[26]

https://ja.wikipedia.org/wiki/ティーガーI

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