Ⅳ号戦車D型
性能情報
全長 | 7.02 m |
---|---|
車体長 | 5.92 m |
全幅 | 2.88 m |
全高 | 2.68 m |
重量 | 25.0 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式ボギー型 |
速度 | 38 ~ 42 km/h(整地) 16 km/h(不整地) |
行動距離 | 210 km(初期)- 320 km(中期以降) |
主砲 | A~F型:24口径75mm KwK 37 (70~122発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2 (銃弾3,150発) |
装甲 | 砲塔前面:50mm駐退機前面:70mm側面・後面:30mm上面:16-25mm車体前面:70mm側面:30mm後面:20mm上面:15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM V型12気筒ガソリン 300PS (224kW) |
乗員 | 5名 (車長、砲手、装填手、操縦手、通信手) |
運用事績
III号戦車が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となるポーランド侵攻の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった[1]。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、フランス侵攻が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。
1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた[1]。
1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。
ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが[2]、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IV号戦車
Ⅳ号D(F2)
性能情報
全長 | 7.02 m |
---|---|
車体長 | 5.92 m |
全幅 | 2.88 m |
全高 | 2.68 m |
重量 | 25.0 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式ボギー型 |
速度 | 38 ~ 42 km/h(整地) 16 km/h(不整地) |
行動距離 | 210 km(初期)- 320 km(中期以降) |
主砲 | A~F型:24口径75mm KwK 37 (70~122発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2 (銃弾3,150発) |
装甲 | 砲塔前面:50mm駐退機前面:70mm側面・後面:30mm上面:16-25mm車体前面:70mm側面:30mm後面:20mm上面:15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM V型12気筒ガソリン 300PS (224kW) |
乗員 | 5名 (車長、砲手、装填手、操縦手、通信手) |
運用事績
III号戦車が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となるポーランド侵攻の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった[1]。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、フランス侵攻が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。
1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた[1]。
1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。
ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが[2]、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IV号戦車
Ⅳ号D(H)
性能情報
全長 | 7.02 m |
---|---|
車体長 | 5.92 m |
全幅 | 2.88 m |
全高 | 2.68 m |
重量 | 25.0 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式ボギー型 |
速度 | 38 ~ 42 km/h(整地) 16 km/h(不整地) |
行動距離 | 210 km(初期)- 320 km(中期以降) |
主砲 | H~J型:48口径75mm KwK 40(77発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2 (銃弾3,150発) |
装甲 | 砲塔前面:50mm駐退機前面:70mm側面・後面:30mm上面:16-25mm車体前面:70mm側面:30mm後面:20mm上面:15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM V型12気筒ガソリン 300PS (224kW) |
乗員 | 5名 (車長、砲手、装填手、操縦手、通信手) |
運用事績
III号戦車が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となるポーランド侵攻の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった[1]。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、フランス侵攻が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。
1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた[1]。
1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。
ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが[2]、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IV号戦車
Ⅳ号H(最終章Ⅱ)
性能情報
全長 | 7.02 m |
---|---|
車体長 | 5.92 m |
全幅 | 2.88 m |
全高 | 2.68 m |
重量 | 25.0 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式ボギー型 |
速度 | 38 ~ 42 km/h(整地) 16 km/h(不整地) |
行動距離 | 210 km(初期)- 320 km(中期以降) |
主砲 | H~J型:48口径75mm KwK 40(77発) |
副武装 | 7.92mm機関銃MG34×2 (銃弾3,150発) |
装甲 | 砲塔前面:50mm駐退機前面:70mm側面・後面:30mm上面:16-25mm車体前面:70mm側面:30mm後面:20mm上面:15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM V型12気筒ガソリン 300PS (224kW) |
乗員 | 5名 (車長、砲手、装填手、操縦手、通信手) |
運用事績
III号戦車が新機軸を採用し、E型で設計が確立するまで、配備が少数になってしまったのに対して、既存の技術で設計されていたIV号は第二次世界大戦の開戦となるポーランド侵攻の段階でまとまった数を配備されており、この関係でポーランド侵攻の時だけはIII号よりIV号の方が配備数が多かった[1]。 その後、III号の生産が本格化し始めたため、フランス侵攻が始まるころにはIII号の数も増えていたが、全体で見れば、当時主力と定められていたIII号は必要量を満たすことが出来ず、支援戦車の地位であったはずのIV号も実質的には主力として扱われている状況であった。
1941年6月、独ソ戦が開始され、ドイツ軍はソ連国内への侵攻を開始する。そこで赤軍のT-34(30トン級)に対して全てのドイツ対戦車兵器の威力不足が露呈するという事態(いわゆる「T-34ショック」)に遭遇する。そのため、T-34などの戦車に対抗できるよう主砲を短砲身から長砲身に設計変更したG型が登場する(資料によっては最初の長砲身型はF2型とも表記される)。 この型式あたりから、IV号は支援戦車から主力戦車の地位を務めるようになる。北アフリカ戦線に送られた長砲身型のIV号は、この戦線に派遣されたドイツ軍のなかではティーガ―Iに次ぐ強力な戦車であり、全体で見れば少数しか配備されていなかったものの、大きな戦果を上げており、連合軍からはマークIVスペシャルとして恐れられた[1]。
1943年、性能向上としては最終型とも言えるH型が登場する。同じころ、V号戦車パンター(45トン級)が登場し、生産も開始されて配備も始まっていたが、パンターの生産が伸び悩んだこともあり、敗戦時までIV号が主力の地位を務めている部隊が少なくはなかった。
ドイツ陸軍兵器局は、T-34-85との算定で、IV号戦車はあらゆる比較項目で圧倒されるという結論に至っていたが[2]、全ての生産ラインをパンターに切り替える余裕は無く、グデーリアンの強い反対もあって本車の生産を中止するという選択肢はなかった。ただし、想定される敵戦車でも主力である中戦車のM4シャーマン(30トン級)やT-34であれば撃破することは可能であり、重戦車でなければ、兵器局が言うような一方的に撃破される状況となっていたわけではなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/IV号戦車
38(t)(生徒会)
性能情報
全長 | 4.61 m |
---|---|
車体長 | 4.56 m |
全幅 | 2.15 m |
全高 | 2.26 m |
重量 | 9.5 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式ボギー型 |
速度 | 42 km/h(整地) 19 km/h(不整地) |
行動距離 | 210 km |
主砲 | 3.7cm KwK 38(t) (Škoda A7 37.2mm L/47.8) |
副武装 | 7.92mm MG37(t)重機関銃 ×2 |
装甲 | 砲塔・車体 前面 50 mm砲塔・車体 側面 30 mm |
エンジン | プラガ EPA 4ストローク水冷直列6気筒ガソリン 125 馬力 |
乗員 | 4 名 |
運用事績
https://ja.wikipedia.org/wiki/LT-38
ヘッツァー
性能情報
全長 | 6.27 m |
---|---|
車体長 | 4.87 m |
全幅 | 2.63 m |
全高 | 2.17 m |
重量 | 15.75 t |
懸架方式 | リーフスプリング |
速度 | 路上最大42 km/h 路外平均15 km/h |
行動距離 | 177 km |
主砲 | 48口径7.5cm PaK39 L/48(41発) |
副武装 | 7.92mm MG34機関銃 |
装甲 | 車体前面上下60mm側・後面20mm底面10mm |
エンジン | マイバッハ Hl 203 P 30 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 160 馬力 |
乗員 | 4 名 |
運用事績
もともとはIII号突撃砲を生産するベルリンのアルケット社工場が爆撃され生産停止に陥った際、ドイツ陸軍最高司令部から、チェコのBMM社(ČKD社が再編されたもの)に同突撃砲の生産が代行できないかと打診されたのが開発のきっかけであった。1943年12月6日、BMM社には重量24トンの突撃砲を持ち上げ移動できる機材や組み立てスペースが無く、より小型の車輌しか生産できないと報告されたアドルフ・ヒトラーは同月17日に、新たに同社から提案された、38(t)n.A.偵察戦車のコンポーネントを使う13トン級軽突撃砲(後に小型駆逐戦車)を生産することに同意した[注 1]。 第二次世界大戦末期のドイツに最も合致した戦車とも言われる。
本車は安価(54,000ライヒスマルク、IV号戦車の半額に近い)で生産性も意識され、最優先事項とされたこともあり、わずか4ヶ月で設計を終えた。そして実物大木型模型すら完成していない1944年1月18日の段階で1,000輌が発注され、後に月産1,000輌が目標とされたが、1年足らずの生産期間で完成したヘッツァーはBMM社で2,047輌(回収戦車型やシュタールを含む)以上、シュコダ社で780輌以上だった。
車内レイアウトの関係上、車体右側が死角となり、他の乗員と隔離され後方に位置する戦車長[注 5]からの前方視界は悪く、車内の狭さと合わせ、当時の乗員からの評判は良くなかった[注 6]。この死角が原因で、個々に攻撃支援など行おうものなら弱い側面[注 7]を突かれてたちまち撃破され、初陣であるワルシャワ蜂起の市街戦でも、ポーランド国内軍兵士の火炎瓶攻撃により失われている[注 8][5]。敵戦車を待ち伏せ小隊単位で互いの死角を補い合い、単一の敵に集中砲火を浴びせ確実に仕留めていく「パックフロント」戦術こそが正しい本車の戦法であり、機動防御に本領を発揮した[注 9][4]。
本車はドイツ陸軍の軍直轄戦車駆逐大隊、歩兵・国民擲弾兵師団の対戦車猟兵中隊、武装親衛隊の装甲擲弾兵師団に配備されたほか、75輌がハンガリー軍に供与されている[注 10][4]。
軽駆逐戦車としての性能や運用については評価が分かれるものの、少なくとも、III号突撃砲の代替品あるいは後継という点では成功したと言える。戦後もドイツ軍向けだった生産ラインを用いて(多くはドイツで生産されていた、遠隔操作ではなく車内から直接操作される『リモコン機銃』の在庫が足りず装備していなかったが)ST-Iの名で150輌が追加生産され、非武装の訓練型ST-IIIも50輌が作られた。
1946年にはスイス陸軍がG-13の名で採用[注 11]、チェコでは主砲であるPaK39が生産されていなかったため、代わってIII号突撃砲用のStuK40が装備され、同時に車内レイアウトや乗員配置を改善、戦車長と装填手の配置が入れ替わっている。外見的には主砲のマズルブレーキがあり、上部のリモコン機銃の代わりに装甲カバー付き旋回式ペリスコープを装備、またスイスオリジナルのMG-38用対空銃架を装備したものもあり、さらに側面に搭載された予備転輪と予備履帯により、ヘッツァーとの識別は容易である。シュコダ社により1950年までに158輌が作られ、戦争映画ではヘッツァー役で登場することもあり[注 12]、また博物館にある稼動ヘッツァーとされる物の一部には、G-13の外見をヘッツァー風に改造したレプリカもある[注 13]
https://ja.wikipedia.org/wiki/軽駆逐戦車ヘッツァー
八九式
性能情報
全長 | 甲型 5.75 m 乙型 5.70 m |
---|---|
全幅 | 2.18 m |
全高 | 2.56 m |
重量 | 甲型 自重11.9 t 全備12.7 t 乙型 自重12.2 t 全備13.0 t[1] (計画時 11t以内[2]) |
懸架方式 | リーフ式サスペンション |
速度 | 最大25 km/h 巡航20 km/h(整地) 8 km/h 〜 12 km/h(不整地) |
行動距離 | 甲型 約140 km 乙型 約170 km |
主砲 | 九〇式五糎七戦車砲×1 (100発) |
副武装 | 九一式車載軽機関銃×2 (2,745発) |
装甲 | 最大17 mm |
エンジン | 甲型 東京瓦斯電気工業ダ式一〇〇馬力発動機 水冷直列6気筒ガソリン 乙型 三菱A六一二〇VD 空冷直列6気筒ディーゼル |
乗員 | 4 名 |
乙型諸元は主に館山海軍砲術学校「陸戦兵器要目表」37頁右の表に拠った。 |
運用事績
本車は1931年(昭和6年)の満州事変で初陣を経験した。百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊に、ルノー FT-17軽戦車やルノーNC27軽戦車の置き換えとして配備された。
1932年(昭和7年)に勃発した第一次上海事変では、重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノー乙型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子(てつじし)」と報じられるようになる)。しかし、中国国民革命軍の精鋭第十九路軍の激しい抵抗と、網目のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。
1933年(昭和8年)に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺進隊に加わったが、本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速な九二式重装甲車に奪われた。この作戦では日本初の戦車単独による夜襲なども行われている。
1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件では第2戦車連隊所属の八九式中戦車が出動したが、戦闘は行われなかった。
初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年(昭和14年)のノモンハン事件においては、九五式軽戦車と少数の九七式中戦車とともに中戦車の主力として投入された。この戦いでは、日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃・防御両面能力不足が露見した。そのため、九七式中戦車では対戦車能力を向上させた新型戦車砲の開発(試製四十七粍戦車砲)が同年から行われ、これは一式四十七粍戦車砲として制式採用され新砲塔チハに搭載、また1940年(昭和15年)には攻撃力・防御力・機動力全体を向上させたチヘ車(一式中戦車)の開発が行われた。しかしながら日本の国力の低さおよび、1930年代後期から第二次大戦にかけては航空機と艦艇の開発・生産が優先され、後継戦車の開発・量産が遅延していたため八九式の改良も放置される事となった。
太平洋戦争開戦時には、九五式軽戦車・九七式中戦車への更新が進んでいたが、南方作戦のフィリピン攻略戦において戦車第4連隊が装備する少数の本車が投入された。また、末期のレイテ島防衛戦(独立戦車第7中隊)やルソン島防衛戦の際には、戦車不足のため、既に引退していた本車までもかき集められ戦闘に参加している。
[2] – レイテ島で米軍に撮影された甲後期型
1945年(昭和20年)沖縄戦において、戦車第二十七連隊が首里北方の戦いに参加した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/八九式中戦車
Ⅲ突
性能情報
全長 | 6.77 m |
---|---|
全幅 | 2.95 m |
全高 | 2.16 m |
重量 | 23.9 t |
懸架方式 | トーションバー方式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 155 km |
主砲 | 48口径75 mm StuK 40L/48(54発) |
副武装 | 7.92 mm MG34またはMG42×1-2挺(600発) |
装甲 | 前面上下部 80mm防盾基部 50mm前面上部左右傾斜部 30mm側面 30mm後面 50mm戦闘室上面 10mm機関室上面 16mm底面前後部 30mm底面中央部 15mm |
エンジン | マイバッハ HL 120 TRM 4ストロークV型12気筒ガソリン 300 PS (224kW) |
乗員 | 4名 |
運用事績
突撃砲開発の発端は、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン大佐(当時)が1935年に新生ドイツ陸軍参謀本部に配属された際、歩兵師団に直射火力を付与するための突撃砲兵をルートヴィヒ・ベック上級大将に提案したことである。こういった経緯から、1936年6月15日にダイムラー・ベンツ社は75mm砲を搭載した歩兵支援装甲車輌の開発命令を受領した。搭載砲は左右の射角を少なくとも25度は取れること、乗員を保護するために上部構造の全面を装甲付きの完全密閉型、車輌の高さは当時のドイツ人男性の平均身長を超えないことなどが要求された。
ダイムラー・ベンツ社は、その時点で直近に製造されていたIII号戦車の車台と走行・懸架装置を使用して開発を行った。試作車の製造はアルケット社が引き継ぎ、1937年にはOシリーズ StuG として、III号戦車Ausf.Bをベースにした試作車輌5輌が製造された。これは軟鋼による上部構造を持ち、クルップ社製の短砲身75mm砲 Sturmkanone (StuK) 37 L/24を搭載していた。
1940年から量産が開始されるが、当初は単にStuGと呼ばれ、名称に「III」は付いていなかった。この突撃砲は対歩兵の近接戦闘支援を目的としていたので、初期のモデルは低初速の7.5cm StuK 37 L/24と榴弾を搭載していたが、後にドイツ軍がソビエトのT-34に直面するにあたり、高初速の7.5cm StuK 40 L/43(1942年春頃)または7.5cm StuK 40 L/48 (1942年秋頃) の長砲身砲を搭載するようになった。この頃、後に戦車兵のエースとして知られることになるミハエル・ヴィットマンはIII号突撃砲1両で6両のT-34を撃破する戦果を挙げている。
1943年、IV号戦車をベースにしたIV号突撃砲が開発されると、この車輌はIII号突撃砲と呼ばれるようになった。G型からは、対歩兵対策として防盾付きの7.92mm MG34機関銃を車体上部に取り付けた。後には車内から遠隔操作可能なタイプに変更されたが、生産が間に合わず未装備で前線に送られた物もあった。また後期には主砲と同軸にMG34を装備した車輌もあった。
1944年、フィンランドは継続戦争(第二次ソ連・フィンランド戦争)用として、59輌のIII号突撃砲を受領した。戦闘において、8輌のIII号突撃砲が喪失、ないし行動不能に伴う乗員による遺棄処理となったが、その間に少なくとも87輌のソビエト軍戦車を撃破している。戦後、残存したIII号突撃砲はフィンランド軍の主力戦車に組み入れられた。また、チェコスロバキアは接収し装備していたIII号突撃砲をシリアに売却した。これらは1967年の第三次中東戦争 (六日間戦争) まで使われ続けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/III号突撃砲
M3リー
性能情報
全長 | 6.12 m |
---|---|
車体長 | 5.64 m |
全幅 | 2.72 m |
全高 | 3.12 m |
重量 | 26.0 t |
懸架方式 | 垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS) |
速度 | 39 km/h |
行動距離 | 193 km |
主砲 | M2/M3-75mm戦車砲×1 |
副武装 | M6 37mm戦車砲×1 M1919A4 7.62mm機銃×4(グラントは×3) |
装甲 | (前面)51 mm |
エンジン | コンチネンタル R975-EC2 4ストローク空冷星形9気筒ガソリン ※M3/M3A1/M3A2 400 hp シンクロメッシュ式マニュアルトランスミッション(前進5速/後進1速) 前輪駆動 |
乗員 | 6~7 名 |
運用事績
M3中戦車はレンドリース法による援助の一環としてソビエト連邦にも送られた。ソビエト赤軍ではM3は同じく供与されたM3軽戦車と区別するために“М3с“[注 3](М3(Эм три)средний. “средний”とはロシア語で“中型”の意)”と命名されたが、イギリス軍および英連邦諸国軍での名称である“リー(ロシア語: Ли)”もしくは“グラント(Грант)”という呼称も使われている。将兵の間ではM3は仕様に関わらず“グラント”と呼ぶ傾向があった。
これらの呼称の他に、その大柄で車高のあるデザインから “каланча”(火の見櫓 の意)や“двухэтажный / трёхэтажный”(二階建て/三階建て の意)、“одоробло”(大きくて嵩張る物、の意)というニックネームが付けられたが、車高があり遠方から発見されやすく、被弾しやすい上に被弾時の発火性が高い(後述)ことから、“братская могила на шестерых / братская могила на семерых”(6人用/7人用共同墓地、の意)などと呼ばれ、ここから“ВГ-7”(верная гибель 7(семерых):確実なる7人の死、の意) / “БМ-7”(братская могила на 7(семерых):7人用共同墓地(上述) という略号も生まれた[2][3][4]。
M3中戦車は供与が開始された1941年から1943年にかけて、ガソリンエンジン搭載車とディーゼルエンジン搭載車の両方、各型合計1,386両がアメリカからソビエト連邦に引き渡され[5]、そのうち417両が輸送中にドイツ海空軍の攻撃により輸送船ごと失われて未着となった[注 4]。
赤軍においては1942年から部隊が編成され、同年5月の第二次ハリコフ攻防戦に始めて実戦投入された。M3中戦車はクルスクの戦いにも装備部隊が投入されており、この際に撮影された写真が著名である。1943年半ば以降には国産のT-34戦車の生産と配備が軌道に乗り始めて十分な数が前線に供給されるようになったことと、アメリカよりの供与品としてもより完成度の高い戦車であるM4″シャーマン”中戦車の引き渡しが開始されたため、以後は北方国境(コラ半島・カレリヤ地峡)・極東方面など主力戦線以外の配置部隊や訓練部隊に廻されたが、1945年時点でも装備する部隊は存在しており、1945年夏の時点でもザバイカル軍管区には少なくとも1両が配備されている、との記録が残されている[1]。M3中戦車は同年8月の満州侵攻でも使用されたとする説もあるが、確証はなく、疑問が残る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/M3中戦車
M3リー(一年生)
性能情報
全長 | 6.12 m |
---|---|
車体長 | 5.64 m |
全幅 | 2.72 m |
全高 | 3.12 m |
重量 | 26.0 t |
懸架方式 | 垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS) |
速度 | 39 km/h |
行動距離 | 193 km |
主砲 | M2/M3-75mm戦車砲×1 |
副武装 | M6 37mm戦車砲×1 M1919A4 7.62mm機銃×4(グラントは×3) |
装甲 | (前面)51 mm |
エンジン | コンチネンタル R975-EC2 4ストローク空冷星形9気筒ガソリン ※M3/M3A1/M3A2 400 hp シンクロメッシュ式マニュアルトランスミッション(前進5速/後進1速) 前輪駆動 |
乗員 | 6~7 名 |
運用事績
M3中戦車はレンドリース法による援助の一環としてソビエト連邦にも送られた。ソビエト赤軍ではM3は同じく供与されたM3軽戦車と区別するために“М3с“[注 3](М3(Эм три)средний. “средний”とはロシア語で“中型”の意)”と命名されたが、イギリス軍および英連邦諸国軍での名称である“リー(ロシア語: Ли)”もしくは“グラント(Грант)”という呼称も使われている。将兵の間ではM3は仕様に関わらず“グラント”と呼ぶ傾向があった。
これらの呼称の他に、その大柄で車高のあるデザインから “каланча”(火の見櫓 の意)や“двухэтажный / трёхэтажный”(二階建て/三階建て の意)、“одоробло”(大きくて嵩張る物、の意)というニックネームが付けられたが、車高があり遠方から発見されやすく、被弾しやすい上に被弾時の発火性が高い(後述)ことから、“братская могила на шестерых / братская могила на семерых”(6人用/7人用共同墓地、の意)などと呼ばれ、ここから“ВГ-7”(верная гибель 7(семерых):確実なる7人の死、の意) / “БМ-7”(братская могила на 7(семерых):7人用共同墓地(上述) という略号も生まれた[2][3][4]。
M3中戦車は供与が開始された1941年から1943年にかけて、ガソリンエンジン搭載車とディーゼルエンジン搭載車の両方、各型合計1,386両がアメリカからソビエト連邦に引き渡され[5]、そのうち417両が輸送中にドイツ海空軍の攻撃により輸送船ごと失われて未着となった[注 4]。
赤軍においては1942年から部隊が編成され、同年5月の第二次ハリコフ攻防戦に始めて実戦投入された。M3中戦車はクルスクの戦いにも装備部隊が投入されており、この際に撮影された写真が著名である。1943年半ば以降には国産のT-34戦車の生産と配備が軌道に乗り始めて十分な数が前線に供給されるようになったことと、アメリカよりの供与品としてもより完成度の高い戦車であるM4″シャーマン”中戦車の引き渡しが開始されたため、以後は北方国境(コラ半島・カレリヤ地峡)・極東方面など主力戦線以外の配置部隊や訓練部隊に廻されたが、1945年時点でも装備する部隊は存在しており、1945年夏の時点でもザバイカル軍管区には少なくとも1両が配備されている、との記録が残されている[1]。M3中戦車は同年8月の満州侵攻でも使用されたとする説もあるが、確証はなく、疑問が残る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/M3中戦車
ルノーB1
性能情報
全長 | 6.38 m |
---|---|
全幅 | 2.49 m |
全高 | 2.81 m |
重量 | 30 t 32 t(bis) |
懸架方式 | 縦置きコイルスプリング方式 前進5速/後進1速 後輪駆動 |
速度 | 27.6 km/h |
行動距離 | 150 km |
主砲 | 17口径75mm戦車砲SA35(74発)※車体部 |
副武装 | B1 30口径47mm戦車砲SA34(50発)※旋回砲塔 7.5mm機関銃M1931×2(5,100発)※旋回砲塔及び車体部B1bis 32口径47mm戦車砲SA35(50発)※旋回砲塔 7.5mm機関銃M1931×2(5,100発)※旋回砲塔及び車体部 |
装甲 | 20mm~40 mm ※砲塔 最大60 mm ※車体 |
エンジン | B1 ルノー S6bis 4ストローク直列6気筒液冷ガソリン 180 hpB1bis ルノー Naeder FIEUX 4ストローク 直列6気筒液冷ガソリン 250 hp/ルノー BDR 4ストローク 直列6気筒液冷ガソリン※後期生産車 300 hp |
乗員 | 4 名 車長兼砲塔砲手(装填手兼業)、操縦手兼車体砲手、車体砲装填手、無線手兼機関助手 |
運用事績
1重戦車は1940年のナチス・ドイツによる西方電撃戦で実戦に参加した。
1940年5月の「フランスの戦い」開始時、フランス陸軍は3個機甲師団(DCR=Division cuirassée de réserve)を持ち、さらにもう1個師団が編成されるところだった。
各機甲師団には2個の重戦車大隊(BCC=Bataillon de chars de combat、直訳すれば戦闘戦車大隊)があり、それぞれに35輌のB1/B1bisが配備されていた[注釈 3]。ただし、開戦直後に編成された第4機甲師団下の第46、47大隊は25輌ずつだった。この他、5個の独立戦車中隊にも若干のB1/B1bisが配備された。
ドイツの侵攻開始直後から、これら部隊は防衛戦に駆り出されたが、ドイツ軍の侵攻速度はあまりに速く、フランス軍の指揮系統は混乱しており、しばしば補給も満足に行われない状態であった。第1機甲師団はベルギーに進出しようとする途中でドイツ軍部隊に遭遇、5月14、15日にフラヴィオン近郊で戦闘に入ったが、満足に補給が行えていなかったために戦車は次々に停止し狙い撃たれ、個別撃破される事態となった。16日時点で、同師団の第28重戦車大隊は稼動戦車台数が7輌にまで減少していた[2]。
実戦において明らかとなった欠点として、装甲板の接合に依然リベットを用いていたこと、および車体左側の垂直面にラジエーターグリルを設けている、などの防御上の弱点があった。また、砲塔の武装は車長が、車体の武装は操縦手が担当したが、1名用砲塔に配置された車長は砲塔に装備された47mm砲の操作(装填・照準・発射)と他の乗員の指揮に追われることになり、更に、砲塔には車長用展望塔(キューポラ)があるものの、視察孔の数が限られており、天面にハッチがないために車長は十分な視界を得ることができず、状況を把握するには砲塔後面のハッチを開けて大きく身を乗り出して周囲を確認する必要があった(もっとも、同時期の戦車で戦車長を他の任務から独立させ、充分な視察能力を与えて指揮に専念させていたのはドイツ軍くらいであったが[注釈 4])。無線機は装備されていたもの、搭載されていたのはモールス符号を送受信できるのみのER 53(émetteur-récepteur 53=53型送受信機)であり、これは戦闘中に相互の意思の疎通を行うことはほぼ不可能なもので、音声通話の可能なER 51型への変更が進められていたが、この無線機はエンジンの発生させるノイズによる雑音が酷く、実際には無線による通信はほぼ不可能であった[注釈 5]。中隊長車及び大隊長車には広域通信用のER 55が増設されていたが、これもノイズが酷く入るために実際はほとんど使うことができず、他部隊との連絡が満足に行えないため、部隊としての連携行動は事実上不可能となっており、小隊内の車両間の連絡は車長が手旗信号で行っていた(この点も、同時代の戦車で個々の戦車同士の無線による連絡を完備していたのはドイツ軍くらいではあった)。このため、「他の戦車との意思疎通を図り連携して戦闘する」という近代機甲戦闘などはとても行える状態ではなかった。
とはいえ、その重装甲は当時ドイツ軍の主力対戦車砲であった3.7 cm PaK 36では撃ち抜くことが出来ず、有効な攻撃を行えるのは、ほとんど88mm高射砲だけという状態であった。繰り返し被弾しているにもかかわらず再び戦闘を継続するB1bisの例が報告されており、その存在はドイツ軍にとって大きな脅威であった。
特にド・ゴール指揮下の新編第4師団第47大隊に所属した425号車「ジャンヌ・ダルク」は1940年5月28日、アベヴィル橋頭堡の戦いに参加、2時間の戦闘で90発も被弾したにもかかわらず、最後の(おそらく)88mmの被弾による炎上まで戦闘行動を止めなかったという[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルノーB1
ポルシェT
性能情報
全長 | 9.34 m |
---|---|
車体長 | 6,7 m |
全幅 | 3.14 m |
全高 | 2.8 m |
重量 | 57~59 t(戦闘重量) |
懸架方式 | 外装型ボギー式縦置きトーションバー |
速度 | 35 km/h(整地) |
行動距離 | 80km(整地) |
主砲 | 56口径8.8cmKwK36 (弾薬70発搭載) |
副武装 | 7.92mm MG34 × 2 |
装甲 | 前面100 mm 側面80 mm 後面80mm |
エンジン | ポルシェ101/1 V型10気筒空冷ガソリン 2基 ジーメンス・シュッケルト aGV 発電機 1基 ジーメンス・シュッケルト D1495a 交流電動機 2基 320 馬力× 2(エンジン) 500 VA(発電機)/230 kW (312.7 馬力)(電動機)× 2 |
乗員 | 5 名 |
運用事績
ポルシェ博士は電気自動車の技術者としても経験が豊富であり(「ローナーポルシェ」の項目を参照)、VK4501の前身でもあるVK3001の開発計画に際して「加速性能に優れ、左右旋回(操行)も容易な電気式駆動装置が適している」との持論を展開し、ガソリンエンジンと電気モーターによる駆動を試みている。これは空冷ガソリンエンジン2基によって直流発電機を回し、その電力で電気モーターを駆動させることによって走行する、“ガス・エレクトリック方式”による電気駆動であった。本車の開発にあたっても、同様の方式が踏襲された。
第653重戦車駆逐大隊において数輌が指揮戦車として配備され、大隊本部に所属する指揮官グループが搭乗した。この際車体前面にフェルディナント/エレファントと同じく100mm増加装甲板がボルト留めされ、砲塔は量産型ティーガーI に搭載された、形状が改修されたものに換装された。問題のあった空冷エンジンも同様にマイバッハ製水冷式ガソリンエンジン(マイバッハ HL120TRM 4ストロークV型12気筒、出力300馬力(221kW))に換装され、強化されていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/VK4501(P)
チヌ
性能情報
全長 | 5.731 m |
---|---|
全幅 | 2.334 m |
全高 | 2.61 m |
重量 | 自重不明 全備重量18.8 t[1]-19 t[2] |
懸架方式 | 独立懸架および 平衡式連動懸架 |
速度 | 39 km/h |
行動距離 | 210 km、または300 km |
主砲 | 三式七糎半戦車砲II型(口径75 mm・38口径)×1 (弾薬搭載量 70発) |
副武装 | 九七式車載重機関銃(口径7.7 mm)×1 (弾薬搭載量 3,670発) |
装甲 | 砲塔前面50 mm側面前部35 mm側面後部25 mm後面25 mm上面10 mm車体前面50 mm側面25 mm後面20 mm上面12 mm下面8 mm |
エンジン | 統制型一〇〇式 空冷4ストロークV型12気筒 ディーゼルエンジン 排気量21,700 cc 240 hp |
乗員 | 5名(6名説もあり) |
運用事績
1945年4月23日に出された『国軍新兵器便覧』によれば、本車は歩兵戦闘に協同する上で、対戦車戦闘を任務としていた。計画では一式機動四十七粍砲2個中隊、三式中戦車2個中隊、自走砲1個中隊、作業中隊1個を歩兵の作戦と協同させるものである。このうち三式中戦車は攻撃の第一波にあたるのではなく、敵に戦車を投入された場合に逆襲として用いることが企図された。このため本車は陣地の後方へ配置させられることになっていた。直接の歩兵支援は四十七粍砲が担当することとされた。
本車は、1945年末以降に日本本土にて想定されたM4中戦車との戦闘において、防御力や火力に劣っている。三式戦車の三式七糎半戦車砲は、37.5口径75 mm M3戦車砲を搭載した型のM4中戦車とは同程度の主砲貫通力であるが、1944年後半より欧州戦線において投入された52口径76 mm M1戦車砲を搭載した型のM4中戦車に対しては大きく劣る。実際には76 mm砲搭載型M4中戦車が、終戦まで太平洋戦線に投入されることはなかったものの、1945年末以降に想定された本土決戦において投入される可能性は高かった。一方、機動力は同等であるが、当時の日本の橋梁や道路などのインフラは貧弱であり、三式戦車がその18.8 tの全重を通過させるには工兵による支援が必要だった。ただし日本軍の工兵器材は不足がちで、重い機甲部隊は運用限界を超える可能性があった[注釈 4]。
急造戦車として早急に戦力化された本車の性能では、M4中戦車に対し、戦車本来の機動戦闘を行うことは困難(防御力や砲の威力が不足し、正面から撃ちあって負ける)である可能性が高かった。従って本車の最適な運用はあらかじめいくつかの戦車壕(砲塔だけ出して射撃できる様な土盛り)を作り戦車をダグインさせ、敵戦車を十分ひきつけたのちに射撃開始、敵戦車や航空機からの反撃が来る前に陣地転換し射撃継続、というような「砲戦車」的なものにならざるを得なかったであろう(それでも従来の一式砲戦車に比べ密閉型の旋回砲塔を持つことから、敵軍の事前砲爆撃からの生残性は比較にならないほど高く、砲が全周旋回することから駆動系に負担を掛けずに砲を指向することができ、有用性は大きく向上している)。砲の威力不足は認識されており、三式中戦車には攻撃力を増強した改良型が計画されていた(派生型の項目を参照)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/三式中戦車
Mk.Ⅳ
性能情報
基礎データ | |
---|---|
全長 | 8.04 m |
全幅 | 雄型:3.91m雌型:3.2m |
重量 | 雄型:28t雌型:27t |
乗員数 | 8名 |
装甲・武装 | |
主武装 | 23口径6ポンド(57mm)砲×2(雄型)、ルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃×5(雌型) |
副武装 | ルイス .303(7.7mm)空冷式軽機関銃×3(雄型) |
機動力 | |
速度 | 5.95km/h |
運用事績
世界初の戦車となったマークIであったが、開発を急ぐあまり乗員の居住性や安全性は考慮されていなかった[1]。菱形戦車としてはほぼ完成型の域に達してはいたものの、その構造上サスペンションは搭載されず、乗員の居住性は最悪であった[1]。
マークIVは1918年4月24日にフランスのヴィレ=ブルトヌーで、ドイツ軍と史上初の戦車戦を経験している[5]。この戦闘は偶発的なものであったが、イギリス軍がマークIV雄型・1輌に雌型2輌、ドイツ軍がA7V・3輌と車輌の数では互角であった[5]。
第一次世界大戦で1916年(大正5年)から戦車が活躍すると、日本陸軍でもさっそくこの新型兵器に目をつけ、わずか1年後の1917年(大正6年)には戦車の購入を検討している。そこで水谷吉蔵輜重兵大尉がイギリスに派遣され、当初は最新のマークV戦車の購入を打診したが、最新技術の集大成であるマークV戦車を売却することをイギリスは許さず、やむを得ず次善の策として、一つ前の型であるマークIV戦車を購入することになった。そしてイギリスから輸入されたマークIV戦車の雌型が1輌、操作方法を指導するためのイギリス人将校ブルース少佐1名と下士官4名とともに、1918年(大正7年)10月17日に貨物船静岡丸で神戸港に、そこで積み替え、1918年(大正7年)10月24日に貨物船新潟丸で横浜港に入っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/マークIV戦車